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乙女でロマンチストな萬葉集の編纂者!? 大伴家持が詠んだ最後の歌

記事:大和書房

『妄想とツッコミでよむ万葉集』三宅香帆・著、相澤いくえ・絵(大和書房)
『妄想とツッコミでよむ万葉集』三宅香帆・著、相澤いくえ・絵(大和書房)

(大伴家持 ©相澤いくえ)
(大伴家持 ©相澤いくえ)

 萬葉集でもっとも存在感のある男こと大伴家持。なんと彼の萬葉集収録歌は長短歌計473首! 多っ! 全20巻中、ラスト四巻、彼の日記帳!

 いやそりゃ家持の存在感でかくなるやろ。歌の数も多くなるわ。5分の1の巻の主役。そんなわけで萬葉集の編纂者は彼じゃないかと言われております。

 実際のところはわかってないけれど。

 お父さんに大伴旅人(おおとものたびと)、おばさんに坂上郎女(さかのうえのいらつめ)を持って、英才教育以外の何物でもない布陣で育てられた家持。幼少期は大宰府へ(父の仕事の都合ってやつですね)、母を幼い頃亡くすも叔母が母親代わりになった。しかし彼が10代の時に父も叔母も亡くなる。けれど、坂上郎女に教えられた恋歌の技術は大いに役に立った……らしい。萬葉集を見ているとそう思える。

 彼は父ちゃんと違って、政治的にはわりと不遇な立場に追いやられることの多かった人生なのだけど(藤原家と橘家の抗争の時期だった……時代が悪かったね)、そのぶん、赴任先である越中で歌を200首以上詠んだり、同じく赴任先の難波で防人のひとびとと交流して、それがもとで防人歌が萬葉集に載るに至ったらしいとか、和歌史において残した功績は大きかった。それが萬葉集のなかにもよく表れている。

 たとえばこちらの歌。赴任先の越中から都へ帰ることになったとき、友人の大伴池主(おおとものいけぬし)に贈った歌だ。

我が背せ子(こ)は玉にもがもなほととぎす声にあへ貫(ぬ)き手に巻きて行かむ(巻一七・四〇〇七)     【訳】いとおしいきみが、真珠やったらなあ。(ほととぎすの声といっしょに)ひもに通して、僕の腕に巻いてゆきたいんやけど

 ……相手は、男、だぞ と二度見しそうな恋歌だけど、萬葉集にはフツーに載っている。ちなみに池主(※男)が返した歌群のなかの一首はこちら。

うら恋し我が背の君はなでしこが花にもがもな朝(あさ)な朝(さ)な見む(巻一七・四〇一〇)    【訳】恋しくていとおしいあなたが、なでしこの花やったらねえ。 そしたら私は毎朝見られるのにな 

 ……真珠に対して、花っすか、そうですか。ノリノリやんけ、と慄(おのの)いてしまうけれど、これらの歌、「恋愛の歌のフォーマットを用いて相手への想いを詠む」という男性同士の戯れなのである。

 真剣な相聞歌というよりは、恋愛の歌のフォーマットが共有知識としてふたりの間にあることが前提の遊び。わかりますか、意外と教養や知識が必要であると!

 あるいは、家持の歌だと、こんなのも掲載されている。 

春の苑(その)紅(くれない)にほふ桃の花下(した)照でる道に出で立つをとめ(巻一九・四一三九)     【訳】春の苑の、紅に色づく桃の花に染められて下まで色づいている道に、立ってる女の子 

 何とも言えず美しい情景を詠んだ歌だけども……この歌を詠んだ家持、なんと齢34だったのである。いや、美しいけど! 乙女だな家持! きみのほうが乙女よりおとめちっくだよ! と私は全力で思う。

 ちなみに「春苑」や「紅桃」は漢籍でよく使われる表現。地味にこの歌も漢詩の伝統が下敷きになっている。いやでも美しい光景ですよね、桃の花と乙女。家持はほかにも花の歌をわりと詠んでいて、たとえばこんな歌もある。

なでしこが花見るごとにをとめらが笑(ゑ)まひのにほひ思ほゆるかも(巻一八・四一一四)    【訳】なでしこの花を見るたびに彼女の笑顔の素敵さが思い出されるんよなあ 

 ろ、ロマンチスト……。家持の歌を読むと、鳥やら花やら「どうやって小物を使うか」「どうやってそのモチーフをうまく使うか」という、歌の修作のような側面も見えてくる。ホトトギスだったらどう詠むのが効果的かな、なでしこの花の場合はどうかな、とか。

 家持は、とにかくたくさん歌を詠む。そしてそのなかで自分がしっくりくる歌を見つける。家持を見ていると、歌は女性や男性やいろんな人とのコミュニケーションの手段であるのと同時に、修練すべき自分の芸術だったのだろうな、とわかる。

 変な話、歌が贈り合うものや儀式に使われていた時代から、どんどん文芸的で芸術作品としての歌に変わっていく時代への過渡期が、家持の存在によって作られていたのかもしれない、とも思う。もちろん旅人や憶良の時代にもあったけど、家持によって、そして萬葉集ができて、その方向性が決定的になったんじゃないか、と。

 きっと家持は文学という言葉がなかった頃から、歌が文学的な存在だ、ってわかっていたんだろう。だから修練し、たくさんの歌を残し、たくさんの人の歌を収録する歌集の編纂に関わっていた(と見なされている)のだ。

 それは歌が好きで、歌をたくさん詠むことで自分の仕事での不遇さを乗り越えていたのかもしれないし、家持の人生の実存のようなところが、歌によりかかっていたからなのかもしれない。彼がいたからこそ、萬葉集はただの時代的な記録を超えて、文学作品として保存されていた……なんて言ったら、さすがにちょっと妄想が過ぎるかなあ。

 ちなみに全20巻ある萬葉集の最後の歌は、天平宝字三年(759年)正月に家持が詠んだ、

新しき年の始の初春の今日降る雪のいやしけ吉事(巻二十・四五一六)      【訳】新しい年のはじめの正月の今日降る雪みたいに、どんどん重なりますように、ええことが 

 という歌。当時、新しく年が始まる日に雪が降ることは、その年が豊作になる予兆とされていた。どうか今年が、いい年になりますように。そんな年のはじめの祈りのことばが、萬葉集の最後の歌なのだ。

 家持の歌日誌といえば、「歌を詠んだ日付順に並べただけ」に見える。だけど、この歌以降、家持の歌は記録に残っていない。自分の最後の歌、そして萬葉集最後の歌が、新年の雪に祝いと祈りを読み取るものだった。……こんなの、ただの日誌に、文学的なものを見出さざるをえないじゃないか。

 年のはじめに「どうかいいことが重なりますように」って祈る歌を最後の歌にする。これこそが萬葉集のセンスだと思う。奈良時代にはじめて生まれた歌集は、今年の始まりへの祝福で終わるのだ。 

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