生存のための知恵と創造力 『ポーランドの前衛美術――生き延びるための「応用ファンタジー」』
記事:創元社
記事:創元社
ポーランドとの関わりは、大学時代まで遡る。当時、文学部で美学を学んでいた私は、ロマン・ヴィトルト・インガルデン(Roman Witold Ingarden 1893年2月5日-1970年6月14日)の美学理論について取り組んでいた。20世紀を代表する美学者・哲学者であるインガルデンの理論は魅力にあふれる一方難解でもあり、特にその執拗なまでに精密な分析方法や誠実かつ深い洞察にすっかり夢中になった。研究を継続するために、1989年2月から2年間、インガルデンの故郷、ポーランドの古都クラクフにあるヤギェウォ大学哲学研究所に留学することになる。
当時ポーランドはまだ社会主義政権下にあり、日本や西欧諸国との違いに驚き、戸惑うことも多かった。まだインターネットは普及せず、携帯電話もない中、日本との連絡手段も限られていた。国際電話を申し込んでも長時間待たされたあげくにつながらず、郵便局から電報を送ったことなども、今となっては懐かしく思い出される。日々目まぐるしく状況が変化し、毎日が冒険だった。何か一つの小さな発見や達成が非常に大きな手ごたえと喜びを伴って感じられ、文字通り激動の日々であった。
日用必需品をどこで入手したらいいかわからない、物がない、常に行列しないといけない、等々の大変さと同時に、多くの素晴らしく得難い経験をした。哲学研究所の美学研究室では教授や同僚たちが温かく迎えてくれて何かとサポートいただき、間借りした大家さん一家、国立美術館極東部門学芸員たち、何とR. W. インガルデンの孫にあたる、建築家のクシシュトフ・インガルデンとも知己を得て、細やかな生活のサポートや励ましをいただけた。そして大学図書館司書の専門的な知見の深さには本当に助けられた。
また、生活の豊かさについて目が開かれた。日々の生活物資が不足しているにもかかわらず、週末には山小屋に出かけ、日常的に劇場やコンサートへ出向き、長期休暇を楽しむなどの暮らしの優雅さ、新鮮で混ぜ物のない食べ物の美味しさ、広大な草原や荘厳な山々など自然の景観の美しさや、中世を思わせる重厚な佇まいの街並み、文化芸術の豊かさとレベルの高さには本当に感動し、何物にも代えがたい大切な気づきと学びとなった。それから30年。留学中にお世話になった恩師や学芸員、友人たちとは現在も交流がある。それはまた今の私自身あるいは日本を振り返る鑑として、私の日々の原動力となっている。
特に同時代の演劇や現代美術は非常に勢いがあり、その情報がほとんど日本には紹介されていないことに衝撃を受けた。厳しい状況の中、巧みに工夫を凝らし、素晴らしい表現を次々と繰り出す姿をぜひ日本にも紹介したいと考え、帰国して国立国際美術館に勤務してからも、ポーランド近現代美術についての調査を続け、展覧会を企画し、作家を招聘するなどの試みを継続してきた。2008年からは京都市立芸術大学にうつり、それまでのテキストをまとめて出版の機会を得たのが『ポーランドの前衛美術――生き延びるための「応用ファンタジー」』(創元社、2014)である。この中では、ポーランドの作家たちが生存のための知恵を絞り、想像力を駆使しながら検閲を巧みにかわし、また厳しい条件のもとでも正気を保ち、状況を切り開いてゆくための技術とも呼ぶべき特質を「応用ファンタジー」と呼び、その詳細を歴史的文脈にも沿いながら論じた。
こうしたポーランドの作家たちの先駆的試みは、日本ならびに世界が直面するさまざまな厳しい危機にあっても大きな力を与え、照らしてくれる光であると確信している。
『ポーランドの前衛美術』に続き、その続編とも呼ぶべき『カントルから――ポーランド前衛美術の発展と継承(仮)』も出版の予定で、目下準備を進めている。20世紀後半を代表する美術家、演劇科のタデウシュ・カントル(Tadeusz Kantor 1915年4月6日-1990年12月8日)を中心としながら、彼のめざしたものが何であったのか、またそれが現在どのように継承されているのかを探るものとなる。
2019年は日本ポーランド国交樹立100周年にあたり、両国で多くの関連行事が行われた。私自身も、ポーランドのアダム・ミツキェヴィチ・インスティテュートの助成を得て、「セレブレーション:日本ポーランド現代美術展」を京都とポーランドで開催することができた。日本とポーランドの若手中堅作家たちに焦点を当て、双方の類似点と相違点とを探りながら、カントル以後の現代美術の新たな姿を探る展覧会となった。こうした成果も『カントルから(仮)』に収録の予定である。
本年はR.W.インガルデンの没後50周年にあたり、ポーランド並びに世界で記念行事が計画されている。日本でも、インガルデンの理論の解明と、それが現代の文化芸術にどのようなインパクトを持つのかを探る関連講演会を秋に計画している。インガルデンとカントルとは共にクラクフを拠点として活躍し、活動時期も一部重なっている。こうした大きな功績を残した哲学者や芸術家たちから私たちは多くを学ぶことができる。そしてまた、今後の世界へと継承してゆくことが今こそ求められているだろう。