『コンプレックス・プリズム』 最果タヒによる「コンプレックス」に照らした言葉の煌めき。
記事:大和書房
記事:大和書房
今日はなんにもできなかった日。
しなくてはならないことが山積みなのになんにもできなかった日。
朝が来ることをカーテンから滲み出てくる光が知らせる、私は落胆もがっかりも全力で
はできなくて、ただ、沼の底に棲みついてしまったんだなあと思う。自分の未来のことに
ついて考えることなどできない、未来がどうなるのかわからない、どうなろうがこの時間
に変化が訪れるならそれだけで「まあ、いいんじゃないですかね」というような気持ちに
もなる、ねばつきながら。目標を持てとか、持つなとかみんなうるさい。未来が来るとか
未来をどうするかとかそういう話がもうしんどい、今をどこまでも心地よくする方法を教
えてくれ、まずは時間を止めるべきだと私は思う、未来のために今を鰹節のように削るの
はもううんざりだいつまでも、今そのものを丸かじりできず、それがために、だるくてだ
るくて、たまらなくて、削ることも適当に。
鰹節とか。
比喩なんてどうだっていいんだよ、今の時間が充実しないことに、今の私は疲弊をして
いる。何かを成し遂げたいとかそういう気持ちですべてが満ちたら楽だろうが、そうでは
なくて、もっとただじっとすることを願っている細胞があって、そういうのに身を委ねて、時間が過ぎていくのを目玉を動かすこともなく、眺めているのだ。私はすごく疲れていて、それはどのみち、何をしようがしまいが変わらないのだけれど、疲れに見合った「経過」がないと、その疲れを支える気力が湧かなくて、とにかく嫌になってしまう。人の痛みとか苦しさを描いた物語が好きじゃない、理由があって傷つく人ばかりだからだ。理由がないせいでしんどさが、ただひたすらしんどさとして襲うことに、疲弊している私がこれらに共感したところで惨めでたまらなくなる。なんにもしてない、なんにもしてないから疲れる、なにかがしたいとか、充実したいとかじゃない、したくない、って気持ちもあって、それがでもそれだけじゃないから、長いため息が出る、そのことを誰もなにも語ってくれなくて、世界はずっと目的と過程と失敗と成功に満ちている。理由なく死んだ目になる時間を、肯定してほしいわけではないが、美しい景色や柔らかいベッドのうえで、日差しを浴びていたら、たぶん、こういう死んだ目の自分さえ、死んだ時間さえ、ちゃんと昇華されていく気がしていて、遠くに行きたいと思うが行くような元気はどこにもない。ただ、この日々は綺麗でも柔らかくでもないなー、ということだけがわかる。わかる。老人になってもこの憂鬱を忘れたくはないな、死が怖いからって生きることは素晴らしい、時間を無駄にしてはいけないと、張り切ることはしたくないな、余命が短くなった頃もどうか、無為な日々を過ごしていてくれ、そうしてため息をついていてくれ。そうでなくては私が私でない気がしてめっちゃ怖い、と、思いながらそろそろと、やらなくてはならない何かをやるのはやめて、就寝をする。
生きることの辛さみたいなものを描いた作品を読むと、自分のは辛いとかではないので
はと思う、どっちかというと「だるさ」なのかもしれず、でもそのだるさが自分を侵食し
て辛くてたまらない、価値のない徹夜をした時に見る朝の光や、通学路を走る子供たちの
背中とか、そういうのをみて、生きるって大変、とかではない言葉が欲しい、と思う。だ
るいとかめんどうとか、そういうのでもなくて、それらに侵食された私の辛さが辛さとし
て言葉になってほしいのだ。