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神話と庭のアクチュアリティ 『はじまりが見える世界の神話』

記事:創元社

『はじまりが見える世界の神話』(創元社)
『はじまりが見える世界の神話』(創元社)

生きた神話の気配

 人間が新しいウイルスに脅かされている間にも春は変わらずにやって来た。神戸の外れにある築40年の平屋の庭では、芽吹いた木々が暖かい風に揺れ、蝶は咲き始めた花の周りを飛び交い、草の合間を横切るトカゲを猫が踊るように追いかけている。生き物たちが朗らかな季節を存分に謳歌しているこの庭の風景を、毎朝朝食のパンをかじりながらぼんやりと眺めることが最近の僕の一番の幸せである。庭はいつもその日の表情がある。日毎にその姿を更新する植物に驚かされ、虫やトカゲや鳥たちの来客を喜ぶ。晩の雨の名残が陽に輝く初夏の庭は格別美しく、重い雲の下でしんと静まり返った冬の庭も趣深い。そんな庭の姿をずっと眺めていると、その美しさや趣の先に、僕は一種の神話的なムードを感じることがある。それは本で触れる神話とは別の“生きた”神話の気配だ。清らかな空気に体ごと溶けていくようなあの感覚は、いったいどこからやって来るのだろう。

神話的世界から科学による分割へ

 2018年に刊行された『はじまりが見える世界の神話』は、世界のはじまりについて記述した「創造神話」を各地から集めたアンソロジーで、僕はそのひとつひとつの神話に絵を描かせて頂いた。実はこの本は神話に対する僕自身の個人的な興味から始まった企画だったのだが、その興味の源とは、神話という遥か昔の物語が「なぜ人は絵を描くのか」という問に答える最も重要な鍵の一つとして、絶えず示唆を与え続けてくれるところにある。殊に「創造神話」において、誰一人見たことのない世界のはじまりを想像することは、絵を描くことを通して「生死」や「世界」を感じようという画家の試みと限りなく等しい。その種の行為には安易なユートピアを作り上げる喜びとは全く別の、より根源的な生の喜びに触れることを許すものがある。

 夜の闇、深い海の底、遠い水平線、茫漠な空、そして死後の世界。かつて人々が不可視の領域に馳せた様々なイメージは、科学の進歩により未踏の場所が無くなるにつれ、ただの「お話」として扱われるようになった。神話と科学。数々の厳しい問題に直面する現代人が重視するのは当然「リアリティ」のある方だ。目に見えぬものより見えるもの。観測可能な範囲はより遠く、より深く広がり続け、物事はひたすら細かく分割され並べられる。細切れにされた膨大な物事は次第に僕らの目や手で収まりきらないものになり、やがて数字や言葉という象徴を用いることなしに事の全容を捉えることは不可能になった。分割分割分割。科学の時代の世界とは、分割によって生み出された細かいパーツを再び積み上げることで全体が形作られる。ここで大事なのは全体ではない。あくまで分割されたパーツの「リアリティ」が世界を表す

「絵の中のリアリティ」と「神話のリアリティ」

 では神話に「リアリティ」は無いのだろうか。そんなことはない。分割による科学のそれとは別の「リアリティ」が神話にもある。それを僕は絵を描くことを通して実感し続けている。

 例えば一枚のキャンバスに絵を描くとする。汚れのない真っ白な画面は、どんなイメージをも受け止めようとただ待ち構えている。(しかし画面の大きさには限りがあり、その四角の中でだけそれも可能となる。)画家はパレットに出した絵の具を筆で掬い、四角の中を少しずつ埋めていく。やがて全ての場所が埋め尽くされても、さらに上から絵の具を塗り重ね、時に下の色を削り出し、どこかに「生」の欠片はないものかと画面を捏ねくり回す。形は何度も生まれては消えていき、やがてふとした瞬間、そこに調和のとれた一つの世界が現れていることに気づく。これは先述した科学の世界とはまるで違った成り立ち方で、筆跡ひとつひとつには意味もリアリティもなく、それらは水のように流動的なパーツだ。(今はたまたまこういう色と形をしているけれど、次はまた別の色と形をとるであろう。)ただそれら浮遊するパーツはある瞬間、不意に全体としてひとつのトーンを帯び、世界を表現する。(その調和は画家の預かり知らぬところで急に起ち上がるので、それに気づくかどうかは画家の力量にかかっている。)それは部分が全体を作るのではなく、全体が部分を内包するという在り方である。これはあくまで僕の理想であって、全ての絵に当てはまるわけではないが、稀にこうして仕上がる絵にはいつも“真実味”が宿る。僕はこれを「絵の中のリアリティ」と考えている。

 この「絵の中のリアリティ」を翳せば、今度は「神話のリアリティ」が浮かび上がってくる。外界との接触が限られた/(四角いキャンバス)、人や動植物や精霊たちが分かつことなく生きていた時代に/(混ざり合う絵の具)、人は未開の世界の不思議さと/(名前のない色と形)、生命の連続と不連続の謎をそのまま受け入れようと試みる/(生まれては消えるイメージ)。文学に至る前の簡素で欠落した文章は、分割や解釈を求められないまま、書かれることのなかった余白と共に大きな世界に内包される/(不意に起ち上がる調和のとれた全体)。部分を積み上げることで世界を捉えようとせず、限られた視点の先に“収まりきらない”世界をイメージする神話的思考には、科学とは違ったより感覚的な「リアリティ」を獲得する力がある。

動的な現実 / 庭のアクチュアリティ

 手で触れること、また数字や言葉で括れることはひとつの「リアリティ」だ。ただそれはあくまでひとつでしかなく、それだけでこの世界を表すことは到底できない。精神病理学者の木村敏は著書『からだ・こころ・生命』の中で、“実在性”という意味合いの強い「リアリティ」に対し、動的な意味合いを含む“現実性”「アクチュアリティ」という言葉を取り上げている。「生きていること」や「生命そのもの」を理解するには、生きているものの実在(リアリティ)を問うことではなく、《現実に対して働きかける“現在進行中の行為”、あるいはそのような行為を触発している現実》(アクチュアリティ)を捉えることでしか成し得ないと氏は書いている。しかも、現実(アクチュアリティ)を捉えることは非理性的な“身体感覚”や“直感”により可能で、その手続きは抽象的なようで、むしろ《生存が安全になりうるような、実践的な確実さ》があるという。(狩猟採集民の狩における振る舞いをイメージすれば合点がいくだろう。)まさにこの「アクチュアリティ」こそ先述した「絵の中のリアリティ」や「神話のリアリティ」に他ならない。また感覚的に世界を知覚するやり方が《生存が安全になりうるような、実践的な確実さ》を伴うことは、まさに自然への畏怖が描かれた神話が、その世界を生き抜く上で有用であったことにも相当する。「アクチュアリティ」とは古くから人が持つ「生」に対する実感であり、「リアリティ」だけでは捉えきれない世界の在り様を掬い直すために、現代にとっても必要な視座なのではないかと思う。そしてその視座において神話と絵は双子の兄弟か、もしくは親子のようなものだと僕は感じる。〔《》は『からだ・こころ・生命』からの引用〕

 小さな庭に神話的ムードが漂うとき、僕はあらゆるものの調和を感じる。それは庭そのものの呼吸が聞こえてきそうな動的な調和であり、庭を構成する個々の植物や生き物たちの息吹を感じることとは別の、庭自体の「アクチュアリティ」を体感している時間だ。庭はいつだって動いている。風が吹いて小枝がなびき、どんぐりの木からくるくると葉が舞い落ちる。土の中から這い出たダンゴ虫が石を持ち上げ、どこか目指さして歩き出す。背の青い鳥がつがいでやってきて、楽しそうな鳴き声が木の葉の影から漏れている。それに気づいた猫が、下りては来ぬかと狩の姿勢をとる。流れる雲がまばらな暗がりを運び、陽光は瞬きのように時節途切れてはまた照らす。それはまるで絵のような一つの場だ。そこで起こる全てのことは、庭というアクチュアルな「生」として全体でこちらに語りかけてくる。こうして僕は今日も生きた神話の気配を味わいつつ、「生きている」ということについて半ば寝ぼけた頭で考えてみたりしている。

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