観光客は知らない庭の裏側 『京都発・庭の歴史』より
記事:世界思想社
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庭師の片山さんは、私とはじめて会ったときのことから語り始めました。もともと壬生寺の枯池の石組は「勝手に生えたぼさぼさの木〔実生木〕」が伸び放題でした。そこに突然現れた役人の私がそれらの樹々を伐採するように提案し、片山さんは半信半疑でそれを実行しました。しかし本心では「いーんかな?」という否定的な気持ちでした。そもそも片山さんは庭仕事とは長年の経験の積み上げによって説得力をもつものだと考えていたので、第三者が突然侵入し作業内容にとやかくいうので「何じゃ、こいつは!」と反発心をもったといいます。
そのようななかで副住職さんはどうであったかといえば、役所に対して「もう言葉悪いですけど、はっきり言ってね、丸投げやったんですよ」といいます。文化財に指定された庭は、「第三者」の役人である私の「冷静に見ていただけるところ」を期待して、寺としては、私の「指導」に従おうとしていました。そのように思っていたなかで役人から「庭が壊れな」くなる手法が助言されることによって「こんなん、ええんちゃうかな」という要望を口にできるようになったそうです。
何年か修理が進んだ後に、壬生寺では庭の公開を始めました。副住職さんは、自らの寺院の庭を「公開するようになってから、よその庭が気になるように」なったそうです。さらに庭が「見られるから恥ずかしくないようにしよう」とする「見栄」が生じてくるのですが、それは「もっと高いところへ行こうという自分の気持ち」、来訪者に「庭をよく見せたい」という要望の表れといえます。私はその要望が継続することを聞き取り調査のなかで「スパイラルができる」と形容しており、そのほかの庭でも同様の状況になると好循環が生まれるという体験を重ねてきました。
役人側から変化をうながされたことに対して、「最初はものすごく抵抗」していた片山さんですが、スパイラルが「目に見えてわか」るきっかけがあったといいます。片山さんがしかたなく実生木を伐採していると、それまで枝葉で遮られていた太陽の光が庭の地面にまで入り込むようになり、築山(つきやま)の陰影がはっきりと意識できるようになったといいます。その結果、従来片山さんが目指していた「今のかたちのまま現状維持」をするだけではなく、築山上の苔の衰退や凹みなどの修理が必要と思えるようになりました。さらに築山を部分的に修理した結果、「ここの住職さんも、私〔片山さん〕を含めて絶賛しまして」、何回にもわたって庭全体の修理が行われていくことになります。
このように所有者の「要望」と庭師の「確信」、そして補助金による修理費用の裏付けによりスパイラルが連動しつづけるようになると、私が意見をすることはかぎりなく減ります。その結果、片山さんには「やっぱりしっかり仕事しよう」という思いが高まり、副住職さんは作業の経過によって「わくわくした」気持ちになったといいます。
庭が文化財に指定されると、条例など制度の下に置かれ、所有者と庭師はその遵守を意識することになります。かれらは制度にもとづいた管理のあり方を熟知しているわけではないため、専門家や役人ら第三者の意見に依存する場合があります。そうなると所有者と庭師はおのずと無関心、無感動となりかねません。いわば所有者らに「丸投げ」の意識を生じさせている一因は制度であり、役人の働き方次第では所有者らを消極的にすることになります。
私が最初に支障木の伐採を提案したことによって、壬生寺の庭で長年続いてきた予定調和は一旦乱れましたが、所有者と庭師にとっての主体性が回復するきっかけとなりました。所有者が庭の変化に感動し、多くの人々の目に触れて評価を得ると、それに触発されて修理が継続されていきます。その評価は修理を実施している庭師への評価でもあるため、両者はさらに新しい触発を受けて、庭の継承を主体的に楽しむことができます。そうなると所有者たちが逆に役人を触発して、もっと庭をよくしようと要望することにさえなります。
以上の調査結果を通してみれば、スパイラルの正体とは、所有者と庭師が主体的な態度に立つことによって得られる充足感が多重に触発を繰り返すことといえます。つまりスパイラルの原動力とは、所有者と庭師が主体的に庭と関わり合うなかで生じる感動なのです。それを継続するためは、来訪者や役人などによる触発がかれらの要望を増幅して新しい取り組みの実践につながり、庭が自他ともに認める評価を得るといった出来事の循環が求められるのです。