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能楽の大家・世阿弥が伝えたかった「初心忘るべからず」の本当の意味

記事:春秋社

 今から600年前の室町時代に、現代の能楽の源流となる申楽(さるがく)を大成した人物として現代にその名を残す「世阿弥(ぜあみ)」。父・観阿弥(かんあみ)とともに時の将軍足利義満の庇護を受け、幽玄をたたえる「夢幻能」の形式を完成させたと言われている。その教えを説いた『風姿花伝(花伝書)』をはじめ、彼が残した多くの書物は長く秘伝とされていたが、20世紀はじめに吉田東伍によって「発見」され、出版されたことにより、その後100年にわたり広く読み継がれることとなった。そしてその内容は日本最古の能楽論=演劇論としてだけでなく、同時代の「幽玄」の美学に共鳴した思想としても数多く論じられてきた。

 世阿弥の言葉でもっとも有名なものを二つあげるとすれば「秘すれば花」「初心忘るべからず」だろう。前者は奥ゆかしさなどの謙譲の美徳として、後者はあらゆる物事にあてはまる人生訓としていずれも人口に膾炙している。ほかにも「離見の見」や「動十分心、動七分身」など、能舞台での所作を超えた解釈を付与されて、現代に通じる名言・格言として語られる世阿弥の言葉は数多く存在する。

 こうした数多ある解釈から距離を置き、虚心坦懐に世阿弥のテクストと向き合っているのが『おのずから出で来る能 世阿弥の能楽論、または〈成就〉の詩学』(玉村 恭・著、春秋社刊行)である。

 書名に掲げられた「おのずから出で来る」という言葉には、世阿弥という存在を孤高の天才芸術家のようにとらえる(西洋)近代的な視座に対する批判がこめられている。本書によれば、従来の「自律的な、唯一無二の内面を持つ個人としての芸術家が、これまた唯一無二の掛け替えのない作品を作り、思想を紡ぎ出すという、伝統的・古典的芸術(家)モデル」(p.7-8)によって解釈され、いささか一人歩きしている感のある世阿弥の言葉(テクスト)を、あくまで能楽(申楽)の上演を成功に導くために書かれたものであった点に着目することによって、世阿弥の思想をより実感のこもった演劇論として提示することができるという。

 そして「成就」や「和合」の概念、そしてなにより「秘すれば花」の名言によって広く知られる「花」の概念の再構成を試みているが、ここでは第八章「可能性をどう育むか」で検討されている「初心」を例に、議論の一端を紹介することにしたい。

「初心忘るべからず」の本当の意味

 「初心」は、「通念としては、物事をし始めた時の(謙虚な、あるいは新鮮な)気持ちや志に解されてきた」いっぽうで、本来は新鮮さなどではなく「未熟な状態」のことを指すものである点も従来指摘されてきている(p.202)。いずれにせよかつての自分を参照点とするという点では共通しており、「初心忘るべからず」という格言はそれを忘れないことが(どのように活かすかは別として)重要であるという解釈のもと、能楽あるいは演技論の枠組みを越えたさまざまな場面で人生訓や経営理念などに使われてきた。

 しかし『おのずから出で来る能』によれば、世阿弥が「初心忘るべからず」という言葉で説こうとしていたのは、上記のような解釈とはいささか様相を異にする。「初心」とは「未熟な状態」に相違ないものの、経験を積み、成長した後もその「初心」を忘れないということは、必ずしも過去を振り返るということではないというのだ。

 人間の成長のプロセスやモデルとしてわれわれが暗黙のうちに前提としているのは、過去から現在に向かって線的に向上していくイメージである。物事を身につけ、習得してゆく、すなわち新たな要素が付加されることによって成長が起こる、という見方である。

 しかし世阿弥の考える成長モデルはむしろその逆ともいえる、次のようなものなのである。

 役者が成長するとは、〈見物衆の気色(けしき)〉との兼ね合いの中で、自己の進むべき道・採るべきやり方を──あるいは、進むべきでない道・採るべきでないやり方を──見出してゆくことである。このような〈成長〉の捉えは、〈付加・蓄積〉のモデルで表象されるそれとはいささか性格が異なるだろう。何かを外から〈付け加え〉たり、新たなものを〈積み重ね〉たりする必要はない。〈成長〉の種は、当人の内に既にある。なすべきなのは、それを通用するものに整えること、足したり乗じたりするのではなく、磨きをかけることである。(p.213)

 磨きをかけ、削ぎ落としてゆくプロセスを「成長」とみるならば、「初心」は削ぎ落とされる前の状態にあたる。どのように磨き上げるかによっていかようにも形を変えることができる原石の状態こそが、世阿弥にとっての「初心」であり、「初心忘るべからず」とは、削ぎ落とす前の状態、つまり別のさまざまな形になることができた可能性を捨てないことを言っているのだという。

 このような見方は、「物事を始めた時の新鮮な(謙虚な)気持ちを忘れないようにすること」という人口に膾炙した解釈と比べると、少々わかりにくく、奇想天外に思われるかもしれない。しかしこの見方は、単に「初心」を胸の内にしまっておくだけではない、もっと積極的な意味合いをこの格言に与えている。経験を積むにつれて「形」を覚え、パターンに慣れてしまい、応用が効かなくなったり、視野が狭くなり、惰性に陥ってしまうことを戒めるだけでなく、さまざまな可能性を秘めていたかつての状態を思い出し、新たな可能性に踏み出すための、より柔軟で臨機応変なありかたを示してくれていると言えないだろうか。

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