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『リズム』を読むーー演奏に限定しない視点から

記事:春秋社

藤原義章画「ヴィオラのリズム」
藤原義章画「ヴィオラのリズム」

 書籍のコピーに「生きた」という言葉が使われているのを時折目にする――「生きた筆跡」「生きたルポ」など、どうやらこの言葉には人々を強く惹きつける力があるようだ。もちろん緻密に整えられた文章は素敵である。しかしそれに引けを取ることなく、誰かが体感したことの中から「自然と」紡ぎ出された言葉の魅力も計り知れない。なぜなら、我々は研ぎ澄まされた論考を成す著作と、気の知れた仲間のふとした「つぶやき」のどちらをも、価値を見出して実際に多く読んでいるからだ。

 『リズム――美しい演奏をデザインするために』(以下『リズム』)は、上に述べた「生きた」書籍である。その中に紡ぎ出されている数々のエピソードには、著者が実際に経験した「生きた」鼓動(リズム)が流れているといえる。

 そのタイトルと副題に掲げられている目的から、この本をいわゆる「演奏のためのガイドブック」の類のものだと思った人も多いかもしれない。もちろん『リズム』から得られる知見が最も発揮されるだろう局面は、演奏活動である。とはいえ、実のところ我々は、音楽活動以外の場面においてこそ「リズム」という言葉を用いているはずだ。「リズムが乱れている」という文字列を見て、まず思い浮かべるのは音楽以外の事柄ではなかろうか(生活リズム、睡眠リズム、あるいは、間を外した時に言われた「きみ、テンポが悪いよね」という失礼なセリフ……など)。

 「リズム」は、何も音楽だけに流れているのではない。ゆえにこの「生きた文体で書かれた」『リズム』へのアンサンブルに、楽器を奏でたり、歌唱したりしないあなたをも、誘いたいと考えた次第である。

『リズム』の変奏

 内容に迫る前に『リズム』の前史を確認しておこう。「あとがきに代えて」から引くに、『リズム』は「前著『美しい演奏の科学』をベースに再構築し、より簡潔を目指した」(137ページ)という。こうした事例は出版業界では多々あり、「リライト」とも呼ばれる。簡潔を目指して、より丁寧な論調で、わかりやすく書き直されたものであるが、その元となる内容それ自体は、重なっている部分も、もちろんある。そう考えると、果たして「リライト」の意義とは――……もちろんこの点を深掘りすれば、果てしなく議論を拡張できる。しかしここでは視点を一つに定めて、このふたつの書籍が「リズムが違う」ということに着目したい。

 我々は言葉のリズムの差によって、そのニュアンスに大きな差異を感じる。例えば、全く同じ説教であっても、早口に捲し立てられるのと、呼吸を置きながら諭されるのでは全く印象が異なる。たとえそれが「全く同じ言葉であっても・・・・・・・・・・・」だ。だからこの『リズム』を、元となった書籍の単なる反復と結論付けるのは、やや早急と言わざるを得ない。むしろ、改めて違うリズムに乗せて「リズム」が綴られているという、変奏にして重奏たる・・・・・・・・・面白さに、この書籍の醍醐味がある。

 以上のエピソードを読んで、「身に覚えがあり」、そして時間の長短によるふしぎ・・・に迫ってみたいとあなたが感じているのであれば、その好奇心の火種を、まさに『リズム』が燃え上がらせてくれるはずだ。

時間の流れは異なる

 時間の、感情によって伸び縮むあの変幻さを、多くの人間が知っている。しかし、あたりまえだからといって、そのアンバランスさへの興味は尽きない(SNSを開けば、多くのひとが「一年の早さ」に言及している)。とすれば演奏に関わる時間も、尚更のことバラエティに富んでいて、だからこそ魅力がある。一方でもちろん、メトロノームと寸分違わぬ演奏という曲芸に向けられた喝采もまた、「機械的な正確さに対する美学」といえる。しかし、どれほどの正確さに直面したとしても、我々は生身の人間の演奏に心を奪われがちだ。そこに人間の能力を超える正確さを誇る、例えばAIによる音楽の価値を問う、件の議論のポイントがある。

 『リズム』によれば、我々が感じている時間の長短は「一拍」ごとに異なるという。『リズム』において度々用いられる図形は、この理論に基づいて抽象化されたもの、つまり一拍ごとに感じる「時間の揺らぎ」を可視化したものである。もちろんその揺らぎの理論は、全ての演奏に適ったものではない。とはいえ、それは単なる「空論」というわけでもない――この理論は、筆者の体験した《ヴィオラ・ソナタ》の事例に、奇跡的に合致している。この点について「一体験を広げて理論を雄弁するでない」と批判するのは野暮である。なぜなら我々は「普遍的で」「絶対的たる」ものと、「個別に」「変化に富む」ものを、等しく求めているから(だから「生きた」は、強く我々を魅了するコピーなのだろう)。

 一方で、メトロノームを闇雲に否定してはならないことも留意すべきである。今まで説明されたものは『リズム』で説明されるところの、「機械的リズム」と「自然リズム」のダイジェストであり、実際にはそのふたつの間にも、双方の外にも、細分化された段階がある。そうしたグラデーションを知りたい方は、ぜひ『リズム』の第8節を読んでほしい。

「リズム」に敏感になれる・・・・・・時代に

 ここまで『リズム』と「リズム」について述べてきた。ここで結びとして、『リズム』に付けられたコピーである「仲間とのアンサンブルが一層楽しくなる」という一文に触れてみたい。

 このパンデミックの時代にて、「対面でのコミュニケーションの重要さ」が謳われる背景――そこには必ずしもデジタルに還元されうるものではない、まさしくこれまで失うまで気づかなかった「零点一秒以下のゆらぎ」が関係しているのだろう。コンマ1秒でも遅れるオンラインのやりとりに、我々はしらぬ知らぬのうちに疲弊しているかもしれない。であればいま一度、我々が感じている「リズム」を『リズム』から問い直す価値は大きいのではなかろうか。

 『リズム』を手にとって、「演奏しない自分には関係ないかな」と、早まってはいけない。「仲間とのアンサンブル」――それは狭義の奏楽ではなく、すぐそばの誰かとの「やりとり」にも敷衍できる。演奏以外の局面であっても、我々は「リズム」に取り囲まれている。だから、必ずしも楽器を必要としない「知のアンサンブル」を、多くに人々に一層楽しんで欲しいと思う。

(文・春秋社編集部)

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