私の通っていた中学校には、文化部が一つしかなかった。それが吹奏楽部だった。運動部に入りたくないなら吹奏楽部に入るしかない。帰宅部という手段もあったはあったけれど、怖い先輩にどやされると聞いて、中学生になったばかりの私は消去法で吹奏楽部に入った。
そこで出会ったのが、ジェイムズ・スウェアリンジェン大先生である。
もちろん、吹奏楽部の部室にスウェアリンジェン先生が実際にいたわけではない。部室にあったのは、スウェアリンジェン先生の曲が詰まったアルバムだった。
ジェイムズ・スウェアリンジェン先生はアメリカの作曲家で、その作品はアマチュアの学生が演奏することを意識したものがとても多い。吹奏楽経験者なら知らない人はいないし、誰もが一度は先生の曲を演奏したことがあるくらいの人気の作曲家だ。
例に漏れず、私もその一人だった。
消去法で吹奏楽部に入った私は、音楽が得意だったわけでも、何か楽器の経験があったわけでもなかった。きらきらと光るホルンやトランペットに憧れつつも、配属されたパートはパーカッションだった。正直に言うと、入部当初は毎日の練習が本当につまらなかった。
入部からしばらくたち、そんな私にもついにスウェアリンジェン先生の曲を演奏する日が来る。『センチュリア』という曲だった。
スウェアリンジェン先生の曲はパーカッションの音に乗ってリズムよく進むものが多い。『センチュリア』もそうだった。「パーカッションってつまんないなあ……」と思っていた私は一転して、自分の演奏が目立つ楽譜を手にして俄然やる気を出した。印象的な美しい旋律が続く中盤では、「誰がやっても一緒じゃん」と思っていたトライアングルを綺麗に鳴らすことに躍起になった。ラストは盛り上げに盛り上げて、どかん! と終わる。初めて同じパートの先輩を格好いいと思った。
難易度も高くないから、初心者でも楽曲を形にできる。それは、技術の未熟な部員ばかりが集まった弱小吹奏楽部でも、音楽の楽しさを存分に味わえるということだった。部員数二十人程度、地区大会を突破するのがやっとで、全国大会なんて目指したことすらない。そんな子供達に「音楽って楽しいんだな」「自分達はやればできるじゃん。演奏できるじゃん」と思わせてくれるのが、スウェアリンジェン先生なのだ。
音楽を始めたばかりで、「地味な練習ばっかりでつまんない」と溜め息をついている私のような人間のためにこの曲は作られたのだと、当時『センチュリア』を演奏しながら私は思っていた。スウェアリンジェン先生はアメリカから遠く離れた日本の片田舎に暮らす中学生のことなんて知らない。知らないはずなのに、世界でただ一人、自分のために作られた曲のように思えた瞬間、『センチュリア』は私の中で色褪せることのない青春の一曲になった。
その頃から小説を書いていた私は、ぼんやりと「自分の小説にもいつかそうなってほしい」などという淡く拙い夢を思い描いていた。
その出会いから二年半後。中学校最後のコンクールで私はスウェアリンジェン先生の『シーゲート序曲』を演奏する。ささやかながら地区大会で一位になって、友人と抱き合って喜んだ。
さらにそれからおよそ十年後、私は吹奏楽を題材にした『屋上のウインドノーツ』という小説で作家デビューする。作中の主人公達が演奏するのは、『シーゲート序曲』だ。