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「グルーヴ」を通して考えるクラシック音楽の感動――ポストコロナの時代、音楽の身体性は取り戻せるのか

記事:春秋社

『グルーヴ! 「心地よい」演奏の秘密』(春秋社)
『グルーヴ! 「心地よい」演奏の秘密』(春秋社)

コロナ禍で浮き彫りになった「臨場感」の正体

 最後に大きなホールでコンサートが聴けたのは今年の3月だっただろうか。それからちょうど半年、すっかり「生」の音楽から離れた生活に馴らされてしまった。録音を聞いたり配信映像を楽しんだりすることで、いくらか気が紛れることがあっても、コンサートホールやサロンに足を運んで、弾き手と聴き手が同じ空気を共有するあの感覚までは味わうことができない。むしろリモートで「臨場感」が謳われることでかえって、生の演奏会での臨場感――演奏の前後に鳴り響くあたたかい拍手や、無音になった瞬間のぴんと張りつめた空気が、耳だけでなく皮膚そして身体全体に、空気の振動である音を感じる体験として刻み込まれていたのだということに、不意に気づかされた。

 今思えばそんな身体感覚こそが「グルーヴ」、つまり音楽体験の快感といえるものだった。それを教えてくれたのが、10名の演奏家がクラシック音楽における「グルーヴ」について語った書籍『グルーヴ! 「心地よい」演奏の秘密』(春秋社刊)である。自らの演奏や聴取体験について「グルーヴ」をよりどころに語る彼らの一言一句が、演奏会が失われてしまった虚無感の中で自分が漠然と欲していた音楽への素朴な感動の正体を丹念に言語化してくれていた。

音楽がもたらす快感=「グルーヴ」

 「グルーヴ」もともとは「(レコードの)溝」から派生した言葉で、『グルーヴ!』編者の山田陽一氏の言葉を借りれば、「音楽演奏のプロセスにおいて現れ出るダイナミックで心地よい感覚」の総称のことだ。

 クラシック音楽を語る際にはあまり使われない言葉だが、われわれがそう呼び習わしていないだけで、音楽がもたらす快感という意味では、クラシックにもいろいろな「グルーヴ」がある。

 リズムをとことんまで追求して高揚感をもたらす「ノリ」が命の作品もあれば、繊細な音色や響きによって夢見心地の心地よさをもたらしてくれるもの、重苦しく唸るような低音や轟音で恐怖や不安を煽るものまで、音によって人間のありとあらゆる情動(パトス)に訴えかける力をもつクラシックはむしろ「グルーヴの宝庫」といっていいのかもしれない。

 ただし、山田氏が次のようにも語っているように、クラシックにもグルーヴが存在したとして、グルーヴが生まれるには演奏者の「さじ加減」が必要となる。

「グルーヴ」という言葉は、演奏上のディテールであったり、表現上の特性であったり(中略)楽譜には記されていないレベルの話なんですね。
(『グルーヴ!』4頁)

 では、楽譜に記されないレベルの微妙な差異がグルーヴだとすると、その「グルーヴ」はどのように生み出されているのか。たとえばコントラバス奏者、池松宏氏が言うには、

コンマ〇一秒、早くても遅くてもダメなんです。というか、早いのも遅いのも有り得るんですけど、それは違う音楽になるということですね。
(同書、144頁)

 マーラーの交響曲第5番の第4楽章(アダージェット)の冒頭でコントラバスのピツィカートが入る絶妙なタイミングを、池松氏はあろうことか「おねしょ」になぞらえて説明しているのが面白いのも本書の魅力である。だがそれ以上に興味深いのは、ただ楽譜に書いてある音符を並べるだけではグルーヴは生じず、楽譜に書かれている範囲を超えて意図的に作り出される微妙なズレや隙間がグルーヴを生み出しているという(考えてみれば当たり前の)事実に、演奏家が真摯に向き合い、丁寧に語ってくれていることである。

 上記はほんの一例にすぎない。ヴァイオリニストの堀米ゆず子氏からピアニストの小曽根真氏まで、本書に登場する弦楽器、管楽器そして打楽器、指揮者までふくめた10名の演奏家は、それぞれの言葉で、それぞれ自分の楽器(指揮者にとってはオーケストラが「楽器」となる)からグルーヴを生み出す秘訣を語っている。名だたる演奏家の方々が、繊細で研ぎ澄まされた感覚と緻密な計算や作り込みによって、グルーヴィーな演奏を実現しているその手の内を明かしてくれているのだ。

グルーヴィーな身体を取り戻す

 音楽の灯を絶やさぬよう奮闘されている演奏家(や関係者)の方々のおかげで、少しずつ生演奏の場が取り戻されつつある(2020年9月末現在)。が、ソーシャルディスタンスが求められるようになってしまったことで、これまでと同じようにグルーヴを味わうことができるのだろうか、と不安がよぎる。

 山田氏は別の本で次のようにも説明している。

 グルーヴは、身体との根源的な関わりをもちながら、身体において、身体をとおして、そして身体のあいだで発現する。音楽を作るのは身体をとおしてであり、音楽を演奏するのも、音楽を聴くのも、音楽に反応して踊るのも、すべて身体という場でくり広げられる行為にほかならない。(中略)
 ある音楽がグルーヴィーになるかどうかは、ひとえにその音楽がどのように演奏されるかにかかっており、聴き手がグルーヴを感じ取れるかどうかは、音楽そのもののグルーヴィーさを前提として、その人のその音楽にたいする親密さの度合いや経験の質と、そのときの心理的・知覚的・身体的状態などに依存している。
(『響きあう身体 音楽・グルーヴ・憑依』134頁)

 外出自粛や密集を避けるために、生の音楽に接する機会からすっかり縁遠くなってしまったせいで、あんなに好きだった音楽を楽しむ気さえも起きないほどに意気消沈してしまっていた自分を省みる。ひょっとするとグルーヴを感じ取るセンサーが鈍っているのかもしれない。

 『グルーヴ!』を読んで演奏家の方々の声に耳を傾けると、第一線で活躍しているプレイヤーの凄さがあらためて浮き彫りになる。が、それ以上に彼らの精緻な感覚の言語化を通して、聴く側であるわれわれの感覚も研ぎ澄まされるような心持ちになる。楽器を実際に演奏する人にとってはなおさらだろう。

 理想を言えば、演奏者と大勢の観客ひとりひとりがホールという一つの場に集まって、吐息の熱量を感じ取れる近さでふたたびグルーヴに明け暮れ、身を委ねることができるようになってほしい。他方で、こんな状況でも、演奏する側と聴く側両方の身体性がグルーヴを志向できるなら、ソーシャルディスタンスを確保したりリモートで演奏活動する中でも、ひょっとしたらグルーヴをつかめるのかもしれない。

 機会を見つけて、今度はこの本と、この本のおかげで少しだけ研ぎ澄まされた(かもしれない)感覚とを持って、いち早くその中に加わりたいと、強く思う。

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