唯識ってナニモノ? ――『修行者達の唯識思想』
記事:春秋社
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唯識思想は仏教でもっとも関心を持たれている思想ではないかと思います。『機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ』や『空の境界』などアニメや漫画にアーラヤ識や唯識という言葉が使われているのを見たことのある人がいると思います。
唯識思想は読んで字のごとく、「唯一識だけがあって、それ以外のものは存在しない」思想と理解されています。識は心みたいなものと理解しておきましょう。
なぜ仏教のなかにそんなことを主張し出す人たちが現れたのでしょうか?
仏教徒たちは瞑想をしていました。その瞑想を特に熱心に行なっていた人たちの体験の語りがもとになっているのが唯識思想です。
彼らは瞑想のなかで心が作り出す映像を見ました。そしてよくよく考えれば、瞑想していないときに見ているものも、それと違わないことに気づいたのです。そして彼らが唯識を主張するグループになりました。
ただ、彼らの気づきを基にした主張が「ただ心だけがあって、それ以外のものは存在しない」であるかどうかは微妙な問題です。
唯識の本場インドでの原語にさかのぼってみると、唯は「~だけ」であり、識は「認識させられた」というような意味で、「認識させられただけ」のように翻訳できます。
唯識を「認識させられただけ(で本当は違う)」と翻訳すると、「心だけがある」という主張とかなり違ってきます。
実際、唯識思想には「あるがままのもの」(真如)や、「認識させられたもの=心によって作り出された映像」を拭い去っても「残ったもの」、悟ったブッダが対象とするもの、のように、誤って認識させられているものの先にある本当の存在を表現する言葉が出てくるのです。
この「誤って認識させられている」というのが苦の原因であり、それをどうにかしようというのが唯識の主張なのです。そう考えると、仏教思想らしさが出て来ます。
ただ、唯識思想にも強弱があり、他の思想と論争するときなどには、ものが存在すると証明する根拠に対して攻撃を加えて、ものは存在しないということを強調して証明しようとすることもありました。
しかし、唯識思想の真意は心以外のものが存在するかどうかを論争することにはなく、どのように誤った認識を正して、苦に対抗するかの実践にあったのだと思います。
ですから、唯識は世界を唯識的見方で見て、苦に対抗しようとする、修行法の一つとも言えます。
唯識は瞑想中に心が作り出した映像に気づくことから始まったと説明しました。心の働きに注目した思想として、心理学からも興味を持たれている思想と紹介されがちです。
さらに心の働きを脳の働きに還元して考えれば、唯識思想は脳の働きに注目した思想とも言え、現在、瞑想中の脳波を測るような研究と唯識研究がタッグを組んでいたりもします。
心とは何なのでしょうか。なぜ我々に映像を見せてくるのでしょうか? それは心の働き、そして言葉の働きによるのです。
とりあえず本記事で心と理解している識は、人間の識別判断の機能のことを指しています。そして識別判断は言葉の働きによって可能になります。
言葉は存在するものの代理をする働きを持っています。識はその言葉を道具に使って、感覚された存在を言葉に代理させていくのです。これが識別判断です。
私たちは識が機能したあとの世界にいます。実際の存在がすでに代理されたあとの世界です。
これが識、つまり心が映像を見せてくるということです。映像とは実際の存在を言葉が代理したもののことです。
瞑想といえば、無心になるために行うというイメージがあるようです。実際に瞑想をするといろんな考えが頭に浮かんできます。感覚が静まることで、心の働きが表面化してくるのです。
私たちは常に代理されたあとの世界にいると言いましたが、それが苦の原因なのです。
気分が落ちこんでいるときにはすべてが悪く感じられます。それは心が世界を作っているからです。苦しく感じられるのは心がそういうように作っているからなのです。
唯識の修行者は修行のなかで心を作り替えます。それを転依といいます。そうして苦しみを無くしていくのです。
(文・春秋社編集部)