美術館に行く意味、それは―― 『忙しい人のための美術館の歩き方』著者寄稿
記事:筑摩書房
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「結局、美術館に行く意味って何?」
美術館学芸員として働く中で、面と向かって誰かから聞かれたことはありません。ただ自問自答したことはあります。それは2020年、全国に緊急事態宣言が発令され、美術館を含む文化施設が軒並み休館を余儀なくされた時のことです。それまで展覧会準備、収蔵品の調査などでめまぐるしくもやりがいに満ちた毎日を送っていたところに、強制ストップがかかりました。そして美術館が閉館しても、大きな混乱もなく世界は当たり前のように回っていました。
美術館を開館することができないこの空白の期間に「美術館は誰に必要とされているんだろう?」「人が美術館に行く意味ってなんだろう?」という疑問が湧いてきました。学芸員に限らず、文化や芸術に携わる人は、多かれ少なかれ似たような思いを抱いたはずです。さらに言えば、そうした疑問に対して自分が明確な答えを持ち合わせていないことにも少なからずショックを受けました。
その後、noteで「ちいさな美術館の学芸員」を名乗り、世間一般からすればマイナーな学芸員という仕事に関するコラムをコツコツと書き始めたのも、今振り返ってみればその答えを探すためだったのかもしれません。noteの更新は気づけば3年を過ぎました。そして満を持して、というわけでもないのですが、ご縁があって書籍執筆の機会をいただいたので、私なりに見つけた現時点での答えをすべて詰め込んだのが、この『忙しい人のための美術館の歩き方』です。
このタイトルだけを見た人は、短時間で効率的に美術鑑賞する秘訣を書いた本、または旅行ガイドの定番『地球の歩き方』からの連想で有名美術館がピックアップされ、おすすめルートが載っているようなガイドブックだと思われるかもしれませんね。実際はまったくちがいます。むしろそうした効率重視の、昨今ではタイパ意識と呼ばれるような風潮に真っ向から立ち向かう本にしようと考えました。第1章のタイトルからして「タイパの真逆にある美術館」ですからね。
長年美術館という現場に身を置いていると、来館者の中に現役世代と呼ばれる層が少ないことを実感します。美術館に足を運んでくれるのは、時間に余裕のできたシニア世代、もしくは学割料金で入れる若者たち、と二極化しているのです。もちろん日々働いていれば、自由に使える時間は少ないかもしれません。限られた時間をやりくりするので、余計にコスパ、タイパを気にしてしまう。手間、時間、お金をかけるならそれに見合う成果や効能があるかどうかを、何事もやってみる前から考えてしまう。そして、自分でも気づかぬうちに自由な選択ができなくなっている。これが、今の私たちではないでしょうか。
書店に行けば、美術を役に立つ教養としてプッシュする本が目立ちますが、はっきり言って美術は何かの役に立つものではありません。これは最初の書籍『学芸員しか知らない 美術館が楽しくなる話』(産業編集センター、2024年)でも主張したことですが、まだまだ言葉足らずでした。美術は役に立つものではなくても、いや、だからこそ効率では測れない価値がそこにあるのです。そんな場所を、私たちは心のどこかで求めているはずです。校正段階で本書の末尾に、次のような文章を書き加えました。「美術館に行く意味、それは――忙しない毎日にそっと余白を差し込むことです。効率に追われる現代で、あえて『無駄』に身をゆだねる贅沢な時間を味わうことです。作品からの呼びかけに耳を澄ませ、目に映る世界をほんの少し変化させることです。そして自分自身と丁寧に向き合いながら、深く息を吸い直すことです」。
本書はこのメッセージを、裏付けるロジックとともにまとめた一冊です。読んだ後に「そこまで言うなら、ひさしぶりに美術館に行ってみるか」と思ってもらえたら、一学芸員としてこの上ない喜びです。
はじめに 美術館に行きたいけどなぜか行けないあなたへ
第1章 タイパの真逆にある美術館
1 「時間はあるのに行けない」はなぜ
2 「美術=ビジネスマンに必須の教養」ブーム
3 コスパ・タイパの呪縛
4 余裕のある時代は美術、余裕のない時代は技術
5 普段から美術館に行く人はどこが違う?
第2章 美術鑑賞の変遷
1 最近10年でヒットした展覧会を振り返る
2 展覧会の歴史 ヨーロッパから日本へ
3 日本の展覧会の黄金時代
第3章 美術館の新たな取り組み
1 SNSによって変わる美術館の常識
2 美術館のデジタルシフト
3 クラウドファンディングをする美術館の苦境
4 四苦八苦のインバウンド対応
第4章 SNS時代の美術館 鑑賞する側が主役になる
1 基本的な鑑賞の心得
2 主体的な鑑賞をするための秘訣はアウトプット
3 鑑賞メモの力を今こそ伝えたい
4 「美術を語れる人」になるためには
第5章 結局、美術館に行く意味って何?
1 現代病の処方箋としての美術館
2 美術鑑賞とマインドフルネス
3 フォースプレイスとしての美術館
おわりに 今度の週末、美術館に行こうと決めたあなたへ