ルールはそもそもなんのためにあるのか? その問いとの対峙は、数々の社会課題に立ち向かうための予行演習
記事:筑摩書房
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私はいわゆる町の書店に勤務してます。管理しているジャンルは新書。
新書はそもそも色んな事象がそもそもなんのためにあるのかを記述することにとても適した器です。その筋の専門家が得意領域を、コンパクトにまとめていることが望まれます。私は新書の良き読者です。本をぜんぜん読まない書店員がものすごい販売スキルを持っていることは往々にしてありますけど、私はそういうタイプではなく、どうせなら通読したうえで自分なりの納得を持って本を配置したい、とかんがえております。
新書の売り手であり、読者でもある私は高卒で、そのことをたまに卑屈におもうことがあります。学がない奴、とされたくない。でも全く背伸びをしようとしない主義でもあるので、相当数ある新書レーベルのなかで、岩波ジュニア新書とちくまプリマー新書を愛読しているのです。若年層を意識した敷居の低さが丁度良いんですね。
ちくまプリマー新書は若年向けを装い、とんでもない変化球を放つことがありますよね。『あぶない法哲学』でおなじみの住吉先生がルールについて、ゼロからおしえてくれる本書『ルールはそもそもなんのためにあるのか』がまさに。
我々はかなりルールに縛られてます。国民性でしょうか。お上が言うのであれば、と不条理がまかり通ってしまいがち。周囲の目を気にするあまり相互に監視し合う状況も生じやすいですよね。この本はそこに一抹の疑義を呈して、可能性を探る本なのかもしれません。先生はちょっぴりアナーキスト。
「ルールは破るためにある」と言われるように、ルールのキワキワのところからイノベーションが生まれるようなこともあるでしょう。サッカーの1986年メキシコワールドカップを思い出してください。私が最も尊敬し崇めているフットボーラー、故マラドーナ選手率いるアルゼンチン対イングランド戦におけるあのプレイ! 世に言う「神の手」ですよ。サッカーのルールからは逸脱していた。それは間違いない。だけど審判の目は誤魔化せた。で、平然とインタビューで自らそのプレイを「神の手」と名付けた。後悔している様子も反省している素振りも生涯なかった。それはもう清々しいほどに。
ルールは大事です。ルールがあるからスポーツは面白いわけで、みんながみんな「神の手」を使えるわけじゃない(そりゃそうだ)。だけど、ルールの揺らぎはときにスリリングで、スポーツに限らず、恋愛のシーンなんかでもドラマティックな展開は逸脱行為から生まれやすい(よく知らないけど)。平野啓一郎氏の恋愛小説『マチネの終わりに』をご存じでしょうか? 読んでて、おもわず声が出るくらいびっくりするような「すれ違い」が起こります。それが恋敵の仕掛けた意図的な罠でして、どうかんがえてもこれはルール違反だ! とおもわざるをえない展開でした。だけど終盤にかけてグイグイとそれぞれのキャラの人生が変転して、その「すれ違い」への憤りは消化されちゃうんです。
すごい脱線しましたけど、この本を読んで、ルールをかんがえることは、社会のあり方をかんがえることに直結しているとおもいました。もっと言えば、より良い社会を構想し導く手助けにもなるはず! と確信しました。いかにして数々の不条理を失くして、個人個人が幸福を追求できるのか。先生がユーモアを交えておしえてくれます。
露ウ戦争が終着を見通せないなか、中東で新たに巨大な危機的状況が発生しました。いろんなフェーズのルールがあるなかでも国際法なんてのは、最もシビアにシステムとして機能させないといけないものでしょう。が、とうてい機能しているように見えず、戦争犯罪が適切に裁かれる状況は訪れそうにありません。
ルールってそもそもなんのためにあるのか。その問いとの対峙は、数々の重たい社会課題に立ち向かうための予行演習。思考のレパートリーを増やし、柔軟に発想する力を養ってくれるんじゃないでしょうか。
プーチンもバイデンも読め。