ミュージカルの解剖学――あるいはジェリクル・キャッツとつきあう方法(2)
記事:春秋社
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ミュージカルはなぜ歌うのか。
そこには、それにふさわしい意味と必然性がなくてはならない。娯楽性の高いエンターテインメントほど、じつのところ「型」を重視している。
私はこれに答えるために、ミュージカル・ナンバーを4つの機能で分類することにした。「ショー」、「ユニティ」、「ダイアローグ」、「モノローグ」——ほとんどのミュージカル・ナンバーはこのいずれかか、その組み合わせで説明がつく。
登場人物が歌手やダンサーの役であるばあい、舞台の中に用意されたステージに立ち、観客役を前に歌やダンスを披露する。これが典型的な「ショー」の機能だ。メトロ・ゴールデン・メイヤーが量産したミュージカル映画の主人公の多くが歌手やダンサーなのはそのためだ。歌い出す違和感を少なくする工夫である。つまり、登場人物の仕事や才能、評価といったことを理解するのに、この「ショー」の機能をもつナンバーは用いられる。
あるいは、ギターを手に持ち、目の前の誰かに向かって歌ってもいい。歌手の役でなくてもよい。《サウンド・オブ・ミュージック》の〈ドレミの歌〉では、家庭教師のマリアがトラップ家の子供たちに歌うことを教える。最初は「ショー」であるが、しかし、途中から子供たちも参加する。ここでナンバーの機能が変化する。全員が同じ旋律を歌う「ユニティ」となる。
では、「ユニティ」が意味するはたらきはなにか。それは、世界観の共有と同意である。〈ドレミの歌〉の場合、子供たちがマリアを受けいれたこと、そして彼らが歌う楽しさを共有したことをあらわしている。前回ふれた、〈アナザー・デイ・オブ・サン〉も最終的には全員が同じ歌詞を歌い、同じリズムにあわせてダンスを踊る。それは、彼らが同じように考えている、ということを表している。
ミュージカルではこの「ユニティ」の機能が重視されている。だれかに向かって語りかけるという「ダイアローグ」の機能のばあい、そのあとに「ユニティ」になるかならないかが物語の筋に大きくかかわってくる。その典型は愛の二重唱だろう。
《ウェスト・サイド物語》の〈トゥナイト〉も〈ワン・ハンド・ワン・ハート〉も、二人は互いに相手に向かって語りかけると、そのまま同じ旋律を歌いだす。「ダイアローグ」から「ユニティ」へ、という機能の変化が生じることで、私たちは二人が相思相愛であることを音楽から理解できる。あるいは、その返答がダンスであってもいい。二人の動きがシンクロしているだけで、私たちはその二人の恋模様を容易に理解することができる。
恋愛でなくとも、《レ・ミゼラブル》の〈民衆の歌〉のように、周囲に呼びかけ、そのまま大きな輪に広がっていく、これもまた「ダイアローグ」から「ユニティ」への変化を示す。
逆に、「ダイアローグ」から「ユニティ」に発展しないとき、私たちはそこに一方通行的な感情の行き違いや、共感を呼ぶことに失敗した人物をみることになる。《ジーザス・クライスト・スーパースター》の〈最後の晩餐〉のように、ジーザスとユダはお互いに罵り合うだけで、決して同じ旋律を同時に歌うことはない。おそらく観客はだれもこの形式性を意識してはいないのだろうが、ミュージカルを見慣れていればいるほど、じつはそういう形式性に動かされているのではないだろうか。
最後に残った「モノローグ」、これは他の演劇と同じように、一人で内面を語る感情の吐露である。怒りや悲しみ、あるいはひそかな喜び、戸惑い、さまざまな感情や思いを口にする。しかし、他の演劇と異なるのは、そこにときどきバックダンサーやコーラスが一緒になって歌ったり踊ったりすることである。独り言であるはずの「モノローグ」ですら「ユニティ」になることがあるのだ。ただし、これはアクティヴな感情のときにかぎられる。つまり、そのバイタリティを表現しようとしたときに、その人物の分身のようにバックダンサーが現れ、彼ないし彼女の感情を補強する。
こうしてみたときに、ミュージカルの本質となるのは「ユニティ」による共有や同意、つまり「肯定」の表現だといってよい。人間が社会的な生活を営むかぎり、避けることのできない「肯定の幸福」をミュージカルは形式的な原理のうちにそなえている。これが、私の考えるミュージカルのきらめきの正体だ。
だが、集団による肯定は、それに沿わないものを拒絶し排除することもある。肯定と否定、同意と拒絶、共有と排除は、つねに隣り合わせである。きらめきがあればその物陰に沈むものもある。きらめきだけでなく、その陰となるものにも思いを寄せたい。
そうすれば、きらびやかな舞台の影のその奥に、こちらをじっと見つめる目が見えてはくるのではないだろうか、例のしなやかな動物のような目が。