ヴィパッサナー瞑想のエキスパートによる『死のレッスン』 (後篇) ――仏教の智慧
記事:春秋社

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前篇で生成AIの文章作成能力の優秀さを紹介しましたが、目下のところチャットGPTが他を圧倒しています。「過去と現在をつなぐ未完の物語を完結させる貴重な時間」とか「終わりの見えない疲労や自らの人生を削って尽くすことへの葛藤」など、人間顔負けの文才すら感じました。
画像作成も見事なもので、トップ画像の写真は生成AIがデザインした絵の中に本書の表紙をハメ込んだものです。筆者が撮影した前篇の写真よりもはるかに優秀ではないでしょうか。
介護や看取りの本が膨大に出版されているなかで、『死のレッスン』に存在意義があるとすれば、死の問題に取り組むすべての人々に瞑想が大きな救いになることを伝えている点でしょう。死がもたらす苦しみは、死んでいく当人をはじめ、愛する人を喪おうとしている人にも、介護地獄に圧し潰されそうになっている人や、掛けがえのない人を喪失した悲嘆(グリーフ)に苦しむ人の心にも黒い波紋を拡げていくのです。
死は人生最大の苦しみですが、とどのつまりその苦は妄想に由来します。人は事実ではなく、恐怖や絶望や喪失のネガティブ妄想にのめり込んで苦しむのです。しかし、もしその妄想を止めることができれば、あるいは明るいポジティブなものに転じることができれば、苦しみは激減し、消えていくでしょう。その具体的な技法を教えてくれるのがヴィパッサナー瞑想です。
汚いものが目に入っても、耳障りなスピーカー音が鳴っていても、他人のタバコの煙を吸い込んでも、「見た」「音」「臭った」とラベリングすれば後続切断され、ネガティブな妄想がスタートしません。これが思考を止める技術です。『実録 ブッダの瞑想法――死のレッスン』(p.16)
本書の特色は、認知症の老母が死に向かっていく日々がドキュメンタリー映画のような克明さで描かれていることです。まず序章で死のレッスンについて理論的に説明しながら全体が概観されると第一章が始まります。母親の認知症が顕著になってから死に至るまでの日々、流れゆくその後の歳月、最後に著者自身の死のレッスンが494のショットを積み重ねるように読者にも追体験されていくでしょう。全編を通じて映画や小説のようなリアルさで、介護現場での臨機応変な対処やコミュニケーションの方法が描かれ、死を肯定的に受け容れていく仏教的な死生観が示されています。
本書を貫いているのは、起きたことは全て正しいとして受け容れていく仏教の業論と無常観です。「人生に、意味はない」という言葉がリフレインのように現われるのも、渇愛が苦の根本原因とする四聖諦に基づいています。生に執着し、愛する人に執着し、喪った人に執着し、人は身を焼くようなドゥッカ(苦)にのたうつのです。愛執にとらわれ、苦しい介護と死の看取りに陥っていくのが当たり前の情況で、平静な心を失わずに淡々と客観視できていたとしたら、それはヴィパッサナー瞑想の威力以外の何ものでもありません。
認知症が進行するのもドゥッカ(苦)だが、好転し、明晰な意識で老死の苦に直面するのもドゥッカ(苦)なのだ。両者にさしたる違いはない。
病気が治るのも、悪化していくのも、ただの現象の変化に過ぎないと腹に落ちていれば、良くなることを願って日々懸命に努力しつつも、本当はどちらでもよく、捨(ウペッカー)の心が定まってくる。『実録 ブッダの瞑想法――死のレッスン』(p.203)
「母が亡くなる前に読みたかった。こんな形で母を看取ってあげたかった」という所感を寄せてくれた方がいました。慈悲の瞑想を長く実践してきた息子が老いた親を全身全霊で介護する物語のようにも読めますが、実は、一切皆苦の無意味な人生であることを熟知しながら、流れに従い、淡々となすべき死のレッスンに取り組んでいった実録の書なのです。
「介護も、看取りも、自らの死も、自然の流れに委ね、瞬間瞬間を輝かせていくならば、いかに死ぬかはいかに生きるかと同じになってくる。それは、受け身の態度ではなく、むしろ能動的な「生」の営みである。死に向かうことは、まさしく生を充実させることであり、今ここにある瞬間を大切にすることなのだ」
と生成AIは、死が輝かせる命のいとなみを肯定的に紹介していました。
また、ネットには「『死のレッスン』とは同時に『生きるレッスン』である、と力強いさわやかな読後感に包まれた」というレビューもありました。
そのようにも読める本ですが、
誰にも見られず裏庭に自生し、秋には枯れていく雑草のように、人の人生にも意味はない。
生きるとは、生存を維持するエネルギーを必死で獲得し、同じことを繰り返すコピーを残して死んでいくことだ。
息子に看取られ、食べて、排泄して、老いに涙し、福助と笑い、ただ死ぬために生きていた母の最期の日々は、意味のない瞬間をただ生きていく人生の虚しさを暗黙に証している姿だった……。『実録 ブッダの瞑想法――死のレッスン』(p. 320)
と、凄みのある言葉で一切皆苦の世界から解脱することを仄めかすショットも現われてくるのです。虚無的な印象を受けるかと思えば、福助人形とのユーモラスな会話に腹を抱えて爆笑する場面も再三現われてきます。
『死のレッスン』は瞑想指導を長く続けてきた者が客観的に観察していった事実を淡々と提示していく構成ゆえに、本を手にした読者のさまざまな関心事が読み出されていくのではないでしょうか。介護に、看取りに、親子の確執に、死の不安に、生きる意味につまずき、立ち尽くしている方々に、仏教的な視座からのヒントを読み取っていただけることを願っています。