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仏教の開祖は何がしたかったのか

記事:春秋社

中村元・前田專學監修 羽矢辰夫・矢島道彦・榎本文雄編集 中村元・羽矢辰夫訳『原始仏典Ⅳ 小部経典第一巻』(春秋社)
中村元・前田專學監修 羽矢辰夫・矢島道彦・榎本文雄編集 中村元・羽矢辰夫訳『原始仏典Ⅳ 小部経典第一巻』(春秋社)

渇愛が滅尽ってなに?

 「この世における欲望の楽しさ、および天界の楽しさは、渇愛が滅尽した楽しさの十六分の一にも値しない」

 皆さん、欲にまみれてますか? まみれるとまでは言えないけれど、それなりに欲望があることは否定できないでしょう。いや、別にそれが悪いと言おうとしているんじゃありません。しかし、最初に仏教の引用を掲げているのだからそういう流れになるんでしょって? まぁそうなるかもしれません。

 仏教で大事なことは何か? 地獄に仏、菩薩のような人……、優しさというか、他人を助けることというのが大事にされているんじゃないでしょうか? お葬式だって故人のために勤めてもらってるわけですし。

 日本の仏教はそういう仏教なので、他人を助けるのが大事です。じゃあそれと引用の言葉はどうつながるんでしょうか? つながるかもしれませんし、つながらないかもしれません。

 引用の言葉は実際のブッダの言葉に一番近いと見なされているパーリ語の翻訳です。仏教が始まった頃大事にされていたことは何なのでしょう? 

 引用の言葉からすれば、渇愛を滅尽すること、つまり、欲望を無くすことですね。まぁ、それが大事なのです。なぜ大事なのか?

生まれ変わりたくないという気持ち

 欲望を無くすと生まれ変わらなくて済むからです。ここに乗り越えがたい世界観のギャップがあるのですが、日本は生まれ変わりという世界観を曲がりなりにも受容しているので、割合スムーズに話が進んでしまいますね。

 しかし、どうしても生まれ変わりたくないという気持ちを持っていますか? ここにはギャップがあるんじゃないでしょうか。

 ブッダの重要な教えの一つにすべては苦しみだというものがあります。生まれ変わって何回も人生を送ってもすべては苦しみであるのだから、生まれ変わりたくないというわけです。

 すべては苦しみであるという前提を踏まえないと生まれ変わりたくないという気持ちに共感しにくいかもしれません。

 日本の仏教はブッダの説いた仏教とは力点が違うので、「生まれ変わりたくない!」ということが大事ではありません。死んだ人は生まれ変わるというより、どこかから見守っているというように考える人が多いように思います。

 それはともかく、では生まれ変わらないために欲望を無くすと言ってもどうすればいいのでしょうか?

 修行において大事な三つのこととして戒・定・慧があります。欲望が湧かないようにするため、守らなくてはいけないルールと、欲望が湧かないように心を安静にする瞑想と、欲望を無くすための知識のことです。これらがヒントになるかもしれません。

欲望を無くすための知識

 欲望を無くすための知識のなかでも決定的だとされているのが縁起です。「これがあるからこれがある。これがなければこれがない。」という関係のことです。とてもシンプルで誰でも知っているようなことに聞こえます。

 その”これ”に当てはまるものが重要なのです。「これがあるから欲望がある。これがなければ欲望がない。」という”これ”が分かれば、欲望を無くすことができますよね?

 その関係を含んだ十二個の関係を十二支縁起と言います。十二支縁起は無知→潜在印象→意識→名称と形→六つの感覚器官→接触→感受→欲望→執着→生存→誕生→老いと死という関係です。知識が無いことから連鎖的にいろいろなことが生じていって老いと死という苦しみが生まれます。

 苦しみは老いと死だけじゃないと思いますが、その前に誕生があります。誕生がすべての苦しみの始まりですから、老いと死は苦しみの代表にすぎないと考えるべきでしょう。

 先ほど述べた欲望を生む”これ”というのは十二支縁起によれば感覚です。感覚は接触が生みます。接触が生じるのは感覚器官があるからです。感覚器官があるのは感覚器官を識別する形式である名前と形があるから、そしてその名前と形という形式によって作用する意識があるからです。

 そして意識を生むのは潜在印象、今までやってきたことが自分にもたらす影響です。車が急に止まれないように、今までやってきたことの慣性が付いていて意識が生まれてしまい、また生まれ変わってしまうのです

 生まれ変わりの仕組みに気づくことで無知を無くし、潜在印象を無くし、以下順次無くしていって最終的に老いと死に代表される苦しみを無くすわけです。

 とはいえ、意識を無くすとか感覚器官を無くすよう努力するというのは可能なのでしょうか? 私が思うに物理的に無くすというよりは意識や感覚器官が働く余地を無くすということだと思います。すでに述べたように、仏教にはルールがあって、それはとても細かいのです。

 出家した人は働くことができず、食事を分けてもらって生活しますし、娯楽は制限されますから、意識や感覚器官の働く余地は少なくなります。

 とはいえそれはぼんやり生きるということではなく、瞑想を日常的に行っていました。そうして個人的な欲望ではなく、仏教のルールに従い、日々瞑想と勉強に生きることで、潜在印象以下のものが順次無くなっていって生まれ変わらなくなっていくと考えられていたのだと思います。

 私はこのようにブッダの気づいた知識はやり方・指針程度のもので、出家して送る仏教的生活が欲望を無くし、生まれ変わらないために重要なのだと解釈しています。

(文・春秋社編集部)

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