唯識思想から見た外界の実在と夢
記事:春秋社
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インドの大乗仏教の一学派である瑜伽行派は、唯識思想を説いたことで知られている。唯識とは「すべてはただ認識の表象に過ぎない」という思想である。ところで、この思想を端的に表すことばとして、「三界唯心」という経文が引かれることがある。三界とは欲界、色界、無色界の三つの領域を指し、仏教的な世界観ではこの世のすべてを表わしている。それがただ心に過ぎないという意味で、「三界唯心」という。唯識思想の大成者の一人であるアサンガは、『摂大乗論』の中で、『十地経』の一節としてこの文言を引いている。
一方、弟のヴァスバンドゥは、その著『唯識二十論』の冒頭で、「大乗おいて三界唯識を立証する」と宣言している。「唯識」という場合の「識」は、「認識の結果」あるいは「認識表象」を意味するvijñaptiの訳である。「唯識(ただ認識表象のみ)」ということによって、外界の対象はその存在を否定される。つまり「三界唯識」とは、「この世のすべては認識表象に過ぎず、外界の対象は実在しない」ということを意味している。そして、ヴァスバンドゥも『十地経』の「三界唯心」を引き、瑜伽行派の唯識思想を裏付ける根拠としている。
このように、唯識思想においては、外界の対象の存在は否定される。そして、『十地経』をはじめとする大乗経典にも、その証左を求めることができる。しかし、われわれは実際に対象を認識し、またそれが自分の外部に存在していることを疑ったりしない。日常生活においては、そのように捉えていて何の支障も生じない。それどころか、外界の対象は心の表れに過ぎず、実在しないと考える方が、我々の実感に反する。そもそも外界の対象が存在しないのに、なぜ対象に対して認識が起こるのか、ということが問題であろう。
唯識思想に対して疑問を抱く人々は、外界が実在すると考えている。アサンガやヴァスバンドゥが生きた時代、外界実在説に立つ人々は、実在は四つの観点から定義されると考えていた。すなわち、(1)特定の空間を占有し、(2)特定の時間に限定され、(3)すべての人に認識され、(4)期待された効用があるもの、それが実在であるとされていた。つまり実在するものは空間的・時間的な制約を受け、ある人には認識されるが、別な人には認識されない、ということがなく、その対象が持っている効用が実際に確認できるものである。最後の条件としてあげられる「効用」とは、例えば、水の場合、それを飲むことで渇きが癒されるが、この「渇きの癒し」が効用であり、それがあることによって、その水は「実在」しているということになる。
この定義は客観的で、われわれの常識にも合致しているように思われる。このような外界の存在を否定し、この世界が認識表象に過ぎないとすれば、それは夢や幻のようなものになってしまう。そもそも一人の人間の夢の中で認識されているものを、他人は認識できない。さらに夢や幻のように実在しないものを認識しても、それに実際の効用は認められない。夢の中の水は、のどの渇きを癒すことはない。外界実在説に立ち、その存在を無反省に受け入れている人々は、このように考えたことだろう。
しかし、唯識の思想家たちは、外界の対象なしに認識が生じうることを、むしろ「夢」を実例として説明している。例えば、ヴァスバンドゥは『唯識二十論』で、外界の実在の四つの条件が、夢の認識においても当てはまることを証明しようと試みている。
『唯識二十論』での「夢」の話は討論の形式をとっていて、実在論者の主張を排除することに終始している。そうした議論を見ると、「やはり夢は夢であり、現実ではない」と、われわれは考えるだろう。しかし、夢の中の認識は単に対象のない認識の例ではない。ヴァスバンドゥの兄のアサンガも『摂大乗論』において「夢」に言及しているが、そこでは少し違った視点で「夢」について語られている。
夢の中の認識は単なる認識の表象に過ぎず、現実ではないが、夢から醒めない限り、それに気づくことはない。夢から醒めたときに、はじめてそれに気づく。アサンガはこのことを指摘した後、われわれが現実として捉えている世界も、夢と同じだという。彼は「真実の智によって覚醒した者」にしか、世界はただ認識表象に過ぎないことは分からないと述べている。「真実の智によって覚醒した者」とは、おそらくブッダを意識した表現であろう。「ブッダ」とはサンスクリット語で「目覚めた人」を意味する。われわれは凡夫であって、ブッダではない。真実の智によって覚醒していない凡夫は、夢から醒めていない人と同じように、自分たちが見ているものが認識表象であることに、まったく気づかない。
このように、「夢」は単に対象が存在しない認識の実例ではない。悟りという仏教思想の根幹にかかわる話であり、われわれ凡夫に対する警鐘なのである。