仏教のアップデートは「怒り」から始まる ドイツ生まれの禅僧・ネルケ無方さん寄稿(前編)
記事:春秋社
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「人生って、ほんとクソゲーですよね」。そんな声を、私はもう何度聞いてきたか分かりません。努力しても報われない。誠実に生きても理不尽な目に遭う。がんばっているのに、ゴールが見えない。――まるでクリア不可能なバグゲーに放り込まれたような感覚。そんなふうに、この世界を感じている人が、今の社会には本当に多いのです。
もちろん、人生はゲームなんかじゃない。現実は「リセット」も「セーブ」もできないし、最悪の場合、「もうやめたい」と思っても、簡単にログアウトはできない。むしろ、その出口のなさが、私たちをさらに追い詰めるのかもしれません。
それでも、私はこう考えています。たとえ人生がクソゲーに見えても、「だから生きている意味がない」とまでは言えない、と。私たちがこのゲームを途中で放り投げずに続けているのは、きっとどこかに「変えられる可能性」があると信じているからです。――そして私は、その「変える力」が、仏教の中に眠っていると感じています。
私はドイツで生まれ、哲学に興味を持ち、日本に渡って仏教を学び、禅僧として生きるようになりました、と書けば聞こえはいいですが、その過程はまったくスマートではありませんでした。むしろ、ずっと「自分の人生ってなんなんだ?」と悩み続ける時間の連続でした。
仏教に出会った当初、私はそこに「人生をうまくやり直す方法」があるのではと期待していました。でも、学んでいくうちに気づいたのです。仏教が目指すのは「攻略」ではなく、「攻略法そのものを疑う」という生き方なのだと。
たとえば、「成功」とか「幸せ」とか、私たちが当たり前のように信じている目標――それは本当に自分の望んでいることなのでしょうか? それは社会から無意識にダウンロードされた“初期設定”を、ただそのままプレイしているだけではないでしょうか?
仏教が説く「苦(ドゥッカ)」とは、単に嫌な出来事のことではありません。自分の欲望や理想と、現実との“ズレ”によって生じる「満たされなさ」のこと。そしてその根には、自分でも気づかない「思い込み」や「前提」が潜んでいる。つまり、苦しみの原因は“外の世界”にあるのではなく、自分自身の“設定”にあるのです。
今の社会に適応できず、生きづらさを抱えている人の中には、心のどこかでずっと怒っている人が多いと感じます。「こんな社会はおかしい」「なんで自分ばかりこんな目に遭うのか」――そんな感情を、人はしばしば押し殺してしまいます。でも私は、「怒っていい」と言いたい。
なぜなら、怒りというのは、「このままではダメだ」と思う感性があるからこそ生まれるものだからです。そこには、世界のひずみに気づく鋭い“まなざし”が宿っている。その怒りは、破壊だけでなく、変化の出発点になりうると私は思います。
私自身、10代の頃は怒りのかたまりのような存在でした。社会に対する違和感、自分の居場所のなさ、自分自身への苛立ち。そのままではつぶれてしまいそうで、何か別の視点がほしくて、宗教や哲学の本を手に取った。そして禅に出会い、ただ坐ること――つまり「ゲームを一服すること」――を繰り返す中で、怒りが少しずつ“問い”に変わっていったのです。
「なぜ自分は怒っているのか?」「その怒りは、どこから来たのか?」。仏教は、そうした内省を通して、怒りを単なる感情ではなく、世界を読み直す“入り口”へと変えていきます。
多くの人が、「人並みの人生」を求めて苦しんでいます。「普通に就職して、結婚して、家を買って、子どもを育てて……」というテンプレのような人生モデル。でもそれって、本当に自分の人生でしょうか?
仏教は、そんな“他人のゲーム”から抜け出して、自分の足で立つことを目指します。それは「自由に生きろ」というような軽いメッセージではなく、自分自身の身体と心に深く向き合い、自分の視点でこの世界を見直すという実践です。
たとえば、坐禅。これは、何もしない時間を“本気で”生きる行為です。スマホも、SNSも、仕事も、善悪の判断も脇に置いて、ただ静かに自分と向き合う。そんな行為の中で、私はようやく、「ああ、これが“自分のゲーム”なんだ」と感じられるようになりました。
目の前にある現実を、他人の物差しではなく、自分の感覚で受け止める。そのとき、人生というゲームは、少しだけ、プレイしやすくなるように思います。
続く後編では、「死にたい」と思ってしまうとき、そして「人生に意味があるのか?」という問いと、仏教的な向き合い方について書いていきます。