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チベットで性産業に従事する女性たちの背景――『花と夢』が描く現代のラサと信仰

記事:春秋社

「神の都」ラサにはチベット人のみならず多種多様な人々が各地からやってくる
「神の都」ラサにはチベット人のみならず多種多様な人々が各地からやってくる

 本書はツェリン・ヤンキーによってチベット語で著され、2016年に中国チベット自治区の区都ラサで刊行された長編小説『花と夢』の全訳である。

 人気女性作家のツェリン・ヤンキーが都会に出稼ぎに来て娼婦となった4人の女性を主人公に据えて描いた本作品は胸を打つ悲劇の物語として評判を呼んだ。多くの媒体でも紹介され、刊行翌年には重版もしている。長期間にわたり厳しいロックダウンが行われたコロナ禍のチベットでは、インターネットにアップロードされた小説の朗読に耳を傾ける人が多かったそうだが、『花と夢』の朗読は最も人気のあるコンテンツの一つとなり、女性や若者を中心とした多くの人びとが熱心に聴き入ったという。構想から7年間かけて書き上げたこの物語は、かくして会心のヒットとなった。

 現代のラサを舞台とするこの作品には、ナイトクラブ《ばら》で働く菜の花、ツツジ、ハナゴマ、プリムラという花の名を源氏名として持つ娼婦が登場する。四人ともやむにやまれぬ事情で故郷を離れ、都会にささやかな夢を託してラサにやってくる。みな性暴力やハラスメントによる傷を抱えながら、何とかして生き延びるために《ばら》に流れついたのだ。チベット人3人と漢人1人からなるこの四人は、裏通りにある小さなアパートで共同生活をし、支え合いながら生きているが、菜の花が病に罹ったことをきっかけに、運命が大きく変わる。拠りどころを失った女性たちが、都会の闇の中でもがき傷つきながらも、自分たちの居場所を見つけて生きていく。彼女たちを優しく見守る著者の眼差しを感じながら読み進めると、最後には未来をかすかに照らすささやかな希望が見える、そんな読後感の小説だ。

著者について

 ツェリン・ヤンキーは1963年、チベット自治区シガツェで生まれた。両親はヤルルンツァンポ川の渡し舟の船頭だったため、幼い頃は祖母に預けられて過ごし、畑仕事や放牧、燃料用の畜糞集めや薪拾いを手伝って過ごした。祖母は学校に行ったことはなかったが語りが得意で、民話や民謡、格言、ことわざなどをたくさん教えてくれたという。このときの経験と記憶が後の創作に影響を与えているそうだ。文化大革命が終った1976年、14歳のときに初めて学校に入学した彼女は漢語を読めるようになり、本や新聞を読むのが大好きになった。ラサのチベット大学に進学すると、漢語に翻訳された海外文学や中国文学を読みふけるようになる。とりわけ好きだったのがスタンダールの『赤と黒』、トルストイの『アンナ・カレーニナ』、ゲーテの『若きウェルテルの悩み』などだった。彼女は読書を通じてでなければ得られない経験があることを実感し、本を読むことが生きていく上でいかに大切かを悟ったという。

 小説を書き始めたのは大学に入学してすぐの1983年。初めて書いた短編小説が『チベット日報』に掲載され、原稿料までもらえたのが嬉しくて、新しい靴を買い、友人を誘って映画を観に行ったという。また、再話した昔話が口承文学の雑誌『パンギェン・メト』誌上に掲載されたときは、同誌の女性編集者デチェン・ドルカルから励ましの手紙が送られてきて、今後も作品を書いていく決意を新たにしたそうだ。

 1987年に大学を卒業した後は、チベット語の教師をしながら小説やエッセイを執筆してきた。これまでに発表した短編小説は7篇、中編小説が2篇、長編小説が1篇と作品数は多くはないが、ダンチャル文学賞や全国少数民族創作駿馬賞を受賞するなど、高い評価を得ている作家である。

 『花と夢』の構想は、著者がラサの高校で教員をしていたときに職場と自宅を自転車で20分かけて往復する折に行き交う様々な女性たちの姿を見つめ続けてきたことがもととなって生まれたという。特に週2回、夜に招集される会議の際に見かけたナイトクラブに出勤する女性たちの姿には強い印象を受けた。他にも茶館のウェイトレスや家政婦、行商人たちの姿を見かけてはその悲痛な運命に思いを馳せるうちに、頭の中でキャラクターが像を結び、著者と会話を交わすようにまでなったという。こうした日々の観察と作家としての想像力が、生き生きとした4人の女性キャラクターを生み出した。この作品は、ナイトクラブのホステスとして生きる4人の女性たちの物語を丹念に描くことを通じて、1990年代以降、都市と村落のあり方が急激に変化し、混乱する現代のチベット社会の現実を、リアリティをもって描き出すことに成功している。

 著者が7年がかりで完成させた本作品は、チベット自治区出身の女性作家がチベット語で著した初めての長編小説となった。刊行当時、北京大学に在学中だった著者の長女は、長編を書き終えた母をねぎらうエッセイの中で、「母はもっと小説を書きたかっただろうに若いころから教師の仕事と子育てで多忙を極めていた。隙間時間を使ってでも書くのを止めなかった母への敬意で胸がいっぱいだ」と記している。寡作である理由も、長編小説を書き上げるのに時間がかかった理由も、すべてこのひと言に凝縮されている。

 現在は退職して、年老いた両親を介護しながら、よき理解者である夫とともに暮らしている。夫はタシ・パンデンという著名な作家である。お互いの創作活動を尊重して、励まし合う関係だそうだ。

作品の背景

 本作品は現代の都市を舞台としており、生活様式などについては解説は必要としないだろうが、現代日本に通用する価値観からすると違和感を覚えるような人物の行動や考え方も見られる。この作品を理解するためには、チベットの人びとの大半が信奉している仏教にもとづく輪廻転生と業報思想、そして舞台となった時代の社会状況と女性の置かれた立場についてある程度理解しておく必要がある。以下ではこの2点に絞って少し解説を試みたい。

(ⅰ)輪廻転生と業報思想

 すでに読み終えた方は、登場する女性たちがみな諦念に支配されているようで不思議に思えたかもしれない。性暴力を受けた女性たちが、自分がこんな目に遭ったのは前世の悪業による報いだと口にする点は特に理解しがたかったのではないかと思う。性暴力の被害者が自責の念に駆られて苦しむ姿を想起した方もいるかもしれない。暴力を行使する人間が悪いことは明白であるのにもかかわらず、なぜこのような考え方をするのだろうか。

 ここで、登場人物の女性が、不幸な目に遭ったことを「自分のせい」だと言っているのではなく「自分のごうの深さのせい」だと言っていることに注目していただきたい。輪廻転生を信じるチベットの人びとは、今ここにある自分の肉体に宿っている意識を、前世においては誰か別の生命体に宿っていたものであると認識し、その生命体において為された善悪様々な行為が原因となって、今の自分の身に起きる様々な出来事が引き起こされていると考えるのである。ひどい目に遭っても、現世の自分のせいではなく、前世の誰かの肉体に宿っていたときの悪業の現れだと考える。今生こんじょうはこのカルマを受け入れるしかないけれども、せめて来世によい境界きょうがいに生まれ変われるよう、できる限り善行を積み、生きとし生けるものの幸せを祈るのである。こうした考え方は、理不尽で耐えがたい苦しみを受けた人びとが何とか辛い現実を受け入れ、生き続けていくために必要な方便ではないだろうか。この考え方をとったからといって、苦しみが大幅に軽減されるわけではないけれども、せめて生き続けるための足場を得ることができる。その足場に立つことで、彼女たちは男たちに対して、そして歪んだ社会構造に対して怒りを表明することができるのだ。

 「今の自分の運命を前世の悪業の結果として受け入れる」というと、静的で受動的なイメージを抱くかもしれないが、むしろ来世に向けての新たな行動を呼び起こす、動的で積極的な態度だと言える。生を一回限りのものではなく、転生して何度も繰り返すものだというはっきりとしたイメージを持っているからこそ、このような考え方ができるのだろう。

(ⅱ)社会状況と女性の置かれた立場

 本作品の主な舞台は2000年代のラサである。この時代は中国政府による西部大開発が推進され、そのあおりで社会構造が大きく崩れていった時代である。ラサのような都市部には出稼ぎに来る人びとが集まり、村落部には年寄りや子ども、子育て中の女性が残された。ラサにはチベット人以外の労働者が増え、人口も大幅に増加した。また、羽振りのいいビジネスマンが集うナイトクラブも増えた。

 この変化がいかに大きなものだったのかをご理解いただくためには、それ以前の状況を知っていただく必要がある。牧畜や農業を営む村落部では、かつては自然環境を活かした生業が営まれ、男女の役割分担が比較的はっきりした生活が営まれてきた。『雪を待つ』(勉誠出版)、『路上の陽光』(書肆侃侃房)などの邦訳書もある作家であり、宗教研究者でもあるラシャムジャが農牧複合村である自らの故郷の1980年代の暮らしをつぶさに描いた『ジャム――M村民俗誌』があるが、それによれば、村での暮らしには男の仕事、女の仕事、男女が共同で行う仕事があり、どれも生活を成り立たせるために欠かせなかったという。男の仕事とは家族の生計についてあらゆる面から構想を立てることであり、特に成人男子であれば家長として家庭の重要事項――子の結婚、家畜の売買、畑の種まきの戦略、土木工事の計画、土地神信仰や仏事など宗教行事への対応など――を決定し、采配しなくてはならない。これに対し女の仕事とは家内労働――食料保存、家財道具の管理、台所の運営、幼い子どもの子育て、畑の草取り、収穫作業、乳加工、羊毛加工、燃料用の糞加工、家畜の世話など――が中心であり、主婦にはその一切を取り仕切る権限と責任がある。男女が共同で行う仕事には、土木工事、種まきと脱穀、保存用肉の屠畜・解体などが挙げられている。同書を読むと、男女両方が生活の運営に欠かせない存在であることがわかるとともに、男女の性役割がかなりはっきりと分かれた社会であることも見てとれる。当時、チベットの村落部では中学校以上への進学率が低かったが、それも上述のような村落運営の基盤となっていた、生業で生きていくための知識を授ける機会を逸することを恐れてのことでもあった。

 こうした社会基盤が一気に崩れていくのが2000年代である。現金収入が重視されるようになれば、出稼ぎに行った方が効率的に収入が得られる。男たちが出稼ぎに出れば、村に残された女たちの仕事の負担が増える。高地で暮らす牧畜民たちの生活でも、生活の近代化によって既製品を使うことが増え、皮衣作りやテント作りなど、男たちが担っていた仕事がごっそり失われてしまう一方で、女たちの家内労働はそのまま残り、その結果、男が出稼ぎに行き、女が家に縛りつけられるという不均衡も生まれた。そんな中で、男が大きな物事の決定権を握り、女がひたすらケア労働に従事するという、歪んだ家父長制が顕在化するようになっていった。

 このように急速に変化する社会には歪みが生じやすく、そのしわ寄せは大抵女性や子どもに押しつけられる。本作品の主人公である4人の女性たちはまさにそうした存在で、十代で世の辛酸を嘗めている。菜の花は村で名高い石工だった父親が転落事故で仕事を続けられなくなったため、高校を辞めて家計を助けるためにラサに出稼ぎに来て、食堂やガソリンスタンドで働く。弟を大学に進学させ、生活を支え続けたのも彼女だった。菜の花と同郷で少し年下のツツジは両親に先立たれ天涯孤独の身の上となり、13歳でラサの役人の家に家政婦として住み込みで働くことになった。児童労働である上に無給である。美しい容貌をもって生まれたハナゴマは高校生のときに上級生と恋仲になるが、妊娠が発覚すると捨てられ、絶望した彼女は中絶薬を服用して危うく死にかけ、入院する。妊娠中絶の事実は学校に知れ渡っており、母親からも冷たくされた彼女は絶望して出奔し、たどりついたラサで洋服屋やジュースバーで働く。プリムラは継母に息子が生まれてから疎んじられ、ひどくいびられた挙げ句、17歳のときに出稼ぎ要員として家を追い出され、ラサのエステサロンで働くようになった。しかし、4人ともレイプやパワハラ、セクハラ、ストーカーといったさらなる悲劇に襲われ、仕事を続けられなくなり、結局セックスワークに思い切って飛び込むのだ。連れ込み宿の併設された違法ナイトクラブが、社会の歪みに押し潰された若い女性たちの駆け込み寺となり、そこで女性たちは社会から蔑まれながら、生きるために必死で仕事をしているのだ。

 本作品は都会の家庭崩壊の問題も取り上げている。ツツジが家政婦をしていた家は共働きの核家族で、父親は転勤のために不在がちなのに加えて、母親も十代の娘とうまく向き合えず、傷ついた娘は友人たちのところを泊まり歩いて学校にも行かなくなり、ついには親を捨てて家を出る。両親は慌てて探し回るが後の祭りで、娘は二度と帰ってこない。

 そのような家庭で働かなければならなかったツツジは、12歳という若さで両親に先立たれて独りぼっちになるという、凄絶な喪失体験をしている。13歳から身を寄せたニェンタク家は、人間関係がどれだけ荒んでいようとも、彼女のシェルターとして最低限の機能は果たしていた。彼女が従事していた家事全般という名のケア労働は、ティーンエイジャーにはつらいものだったに違いないが、行き場のない彼女にとっては唯一の自分の場所だったのではないだろうか。本作品を読めば、児童労働やセックスワークに身を投じなければならなかった事情が手にとるようにわかり、彼女たちをケアする仕組みがない社会構造自体に問題があるということが理解されるだろう。

 セックスワークに従事する女性たちが抱えている大きな問題には、本作品にも描かれているように、法律に守られていないこと、偏見にさらされていること、そしてエイズや梅毒などの病気にかかるリスクが大きいことなどが挙げられる。常に精神的にも身体的にも暴力を受けているも同然なのだ。本作品はそうしたセックスワーカーの視点を借りて、彼女たちが受けている暴力が不当であること、そして彼女たちにも等しく尊厳と権利があることを訴える物語でもある。

 ツェリン・ヤンキーは、こうしたやむにやまれぬ事情を抱えた女性たちや、愛情を受けられずに育った子どもたちに対して、慈愛のこもったまなざしを注ぎ、物語を綴っている。娼婦や不良少女といった、社会に冷ややかな目を向けられ、存在すら認められていないような女性たちを、物語の力で生き生きと浮かび上がらせ、人びとの心に訴える物語として発表したことは、社会的に大きな意義がある行動だったのではなかろうか。

 著者が本文中で、読み書きが出来ることや自分の体を大切にすることが生き延びるためにどれほど重要かというメッセージをたびたび忍び込ませていることも印象的である。この物語を読んだ人びとからも、学校での授業や啓蒙活動で教えられたことよりもはるかにインパクトがあったという感想が続々と届いているというから、著者のメッセージはしっかりと届いているようだ。

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