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インスタ映えする風景、好きですか? SNSに氾濫する「承認欲求」の構造 清水真木『新・風景論』より

記事:筑摩書房

original image: Daniel / stock.adobe.com
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ただひとりの旅なら話は違うかも知れませんが、誰かとともに旅する場合、専門的な哲学者かよほどの変人──同じ一人の人間が両方を兼ねる場合が少なくありません──でないかぎり、具体的な風景を前にして、世俗的な気がかりや興味を心から締め出し、明瞭な自覚とともに風景と対決するなど、風景の意味が哲学的にどれほど重要な問題であるとしても、彼女自身が身を置く具体的な状況が許さないでしょう。これもまた、前に述べたとおりです。

しかし、ウィリアム・ギルピン(1724-1804)に代表される風景論の過激派たちは、絶景の美学のもとで風景とは何であるのかという問いに対し、実際の行動によって律儀に回答します。彼らが試みたピクチャレスクな旅の目指すところはただ一つ、風景を享受することだからです。

彼らの旅のすべては、絶景に辿りつくという唯一の目標から溯って組織されます。当然、ピクチャレスクな旅には、「地元のおいしいものを食べる」「ビーチで日光浴する」「アウトレットモールに立ち寄る」など、風景の享受とは無縁の要素が入り込む余地は最初からありません。

ピクチャレスクな旅では、余計なものはすべて切り捨てられ、「風景の経験のミニマム」、つまり、一つのふるまいが「風景を眺める」と呼ばれるために不可欠の最低限の要素のみが追求されます。そのため、ピクチャレスクな旅を試みた者たちのあまりに真剣な行動と発言は、現代の私たちの目にいくらか滑稽なもの、風変わりなものと映ります。また、ひたすら絶景を目指し、絶景に向き合う者たちの姿は、彼らの同時代の人々からも奇異の目で見られることがあったようです。

それでも、絶景に対する彼らの反応は、絶景の美学の帰結であるかぎり、風光明媚な場所における観光客の行動と本質的に異なるものではありません。ピクチャレスクな旅において、風景論の過激派は、絶景の美学を明瞭な自覚とともに純粋な仕方で受け入れたのであり、その行動が滑稽な、あるいは風変わりな印象を与えるなら、むしろ、この印象は、絶景に対する現代の私たちの態度が不真面目であることの証として受け止められるべきものであるに違いありません。

クロード・グラスで眺めを編集する

ところで、ピクチャレスクな旅の記録を遺した18世紀後半の著述家たちの文章に見出されるのは、ピクチャレスクな眺めを享受することが可能な場所の記述ばかりではありません。彼らは、ピクチャレスクな旅に持参すると便利な道具についても説明を忘れませんでした。著述家たちが携行することを特に強くすすめるもので、現代の私たちの注意を惹くものは二つあります。

一つは、何と言ってもスケッチブックです。たしかに、これは、カメラのない時代には、風景を記録し、風景画をその場で作成するのに欠かすことのできないものだったでしょう。たとえば、ギルピンの公刊したどの旅行記にも、彼がみずから現地で描いたかなりの数のスケッチ、あるいは、スケッチにもとづく水彩画が収められています。ピクチャレスクな旅では、大量のスケッチが描かれるのが普通だったに違いありません。

しかし、スケッチブックとともに、いや、おそらくスケッチブック以上に携行が推奨されていた道具があります。「クロード・グラス」(Claude glass)と名づけられたその不思議な器具は、21世紀の旅行者にはなじみのないものであり、器具の使用法は、私たちの注意を否応なく惹きつけます。

クロード・グラスは、「黒い鏡」(black mirror)とも呼ばれる一種の手鏡、しかも、特殊な加工が施された手鏡です。鏡面は凸面であり、青または黒に着色されています。大抵の場合、鏡の形状は円ですが、四角や楕円のものもありました。ギルピンの同時代の著述家トマス・ウェストは、次のように語ります。

鏡(=クロード・グラス)は、陽の光のもとでは大変に役に立つ。そして、これを使用する者は、彼が眺める対象につねに背を向けなければならない。鏡をそのケースの上の部分を摑んで吊しておくことにより、鏡を(眺めるべき部分がどの位置にあるかに応じて)右か左に少し向けることで、鏡に映った風景が見えることになるであろうし、顔は日焼けしないであろう。(『湖水地方案内』1874年)

ピクチャレスクな風景を見つけると、旅行者は、まず、この風景に背を向け、続いて、クロード・グラスを取り出して片手に持ち、背後の眺めをこれに映します。これがクロード・グラスの基本的な使い方です。風景論の過激派と同時代の画家トマス・ゲインズバラが描く旅人もまた、クロード・グラスをこのように使っているようです。

なお、ゲインズバラは、風景画によって有名なイングランドの画家であり、その作品は、18世紀末以降、ピクチャレスクの内容がロマン主義とゴシック趣味へと変質するとき、クロード・ロランの古典主義的な風景画に代わりピクチャレスクの事実上の範例の役割を担います。この点は、のちに簡単に述べます。

クロード・グラスの鏡面が凸面であるために、背後にあるものは、実際の距離以上に遠くにあるように映ります。また、暗色の鏡面には、眺めをいくらか暗く着色する効果があります。この「携帯用フェンダーミラー」(?)のような鏡に自然を映すことにより、円形や楕円形に縁取られた即席の風景画が鏡面に出現します。クロード・グラスには、鏡に映る自然の眺めをクロード・ロランの風景画に似たピクチャレスクな映像に変換する道具です。これが「クロード・グラス」の名の由来であり、旅行者たちは、映像が風景画らしくレタッチされることを期待し、これを旅先に持参したのです。

たしかに、目の前に広がるはずの眺めにあえて背を向け、凸面鏡に映る映像を鑑賞する仕草は、いかにも不自然に見えます。また、絶景を前にしてこれを必死でスケッチするというのも、私たちに違和感を与えるふるまいであるかも知れません。

けれども、旅行者たちが「なま」の自然の美しさを求めていたわけではなく、自然を絵画として鑑賞することに彼らの目標があったのなら、彼らの動作は、不自然に感じられるとしても、不可解というわけではありません。彼らは、「なま」の自然の直接の眺めではなく、着色された凸面鏡に映る映像、あるいは、スケッチブックに描かれたデッサンのうちにピクチャレスクなものを求めたのであり、自然の眺めは、風景画に見立てられることにより、風景画という枠組の内部において初めて経験され、評価されていたのです。風景画、風景式庭園、「なま」の自然の三者に対し彼らが求めていたのがピクチャレスクなものであったことがわかります。

そもそも、少し冷静に考えるなら、現代の私たちが絶景を前にするときの反応は、18世紀後半の旅行者たちと大して違わないのかも知れません。というのも、ピクチャレスクな旅で絶景に出会ったときに旅行者たちがスケッチブックを即座に取り出したとの同じように、絶景を前にしてカメラを反射的に取り出し、撮影した映像をSNSに投稿することは、現代の旅行者の多くにとり、ごく普通の動作だからです。また、絶景に背を向け、これをクロード・グラスに映すといういかにも不自然な仕草は、スマートフォンで撮影した写真をアプリケーションを用いてその場で編集する作業と基本的には同じだからです。

19世紀前半に販売されていたクロード・グラスの中には、五色が一組になったものがあります。鏡面の色の異なるクロード・グラスに自然の眺めを次々と映すというのは、デジタルカメラで撮影された画像に異なるフィルターをかけてみる作業と何ら異なるところがないように思われます。

(『新・風景論』より抜粋)

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