セクハラの頻出する『源氏物語』の世界で、女子はどう振る舞うべきか 大塚ひかり『源氏物語の教え』より
記事:筑摩書房
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『源氏物語』には、とくに主人公の源氏の場合、当時のまともな恋や結婚の形というのがきわめて少ない。
平安貴族のまともな恋や結婚とは、まず男が、女房などの噂話から、これぞと思う女がいた場合、「垣間見」といって、あらかじめ先方の女の召使や乳母や母親と話をつけて、垣根のすき間などから女を覗き見させてもらう。女の側でも、あるていど容姿を知っておいてもらったほうが、セックスしてから別れを迎えるより傷が少ないので、垣間見用に垣根の穴などを用意していたほどだ。そうして「好みの女」となれば、男のほうから恋文を出す。一回くらい返事がなくても、めげずに文を送り続ける。女側でも、男の文面はもちろん、筆跡や紙、文の使いなどから相手のセンスを推しはかり、嫌ならそのまま返事を出さなければいいし、「結婚したい」と思えば、適度に返事を書く。それもはじめは代筆で、やがて自筆で返事を書く。男の身分が高い場合ははじめから自筆の場合もある。こうした文通を何か月か続け、はじめて男は女を訪ねる。
といってもたいていの場合は、じかに女と会えるわけではない。貴族の屋敷は、外側から、
「簀子〈すのこ〉」→「廂〈ひさし〉の間」→「母屋〈もや〉」
という構造になっていて、母屋には、
「御帳台〈みちょうだい〉」
と呼ばれる寝所がある。女は母屋にいて、男は「簀子」と呼ばれるスペースに通されるのが常だが、男の身分が高ければ奥の「廂の間」にいきなり通されることもある。いずれにしても男はまだ女とじかに話はできない。女は母屋の御簾の中にいて、さらに几帳で姿を隠しつつ、女房を介して男とことばのやり取りをする。男が女房にことばを伝え、そのことばを女房が女に伝える。で、女が何か答えれば、そのことばをまた女房が男に伝えるという、現代人からすれば伝言ゲームのようにもどかしい会話方法だ。
そんなふうに何度か通って誠意を見せると、男はだんだん奥に座ることを許されるようになり、女とじかに会話ができるようになる。そうして互いに「いいね」となれば、女房の手引きで男は母屋に入り、御帳台(寝所)で女とセックスする。こうして男が女のもとに三日通えば結婚成立。三日目の晩は夫婦で「三日夜〈みかよ〉の餅」と称する餅を食べ、女側の親族が集まって、結婚を披露する宴が行われる。すべて女側の家で催され、基本的に男側の親族が参加することはない。
平安貴族の正式な結婚はだいたいこのような手順を踏むわけだが、『源氏物語』にはそうした当時のまとも結婚の形は少ない。その代わり、身近な男による性的行為、今で言えば「セクハラ」や「性虐待」「レイプ」に当たる行為が多く描かれている。
現代でも、レイプの犯人は、「よく知っている人」が61・8パーセント、「顔見知り程度の人」が13・8パーセントと、八割近くが面識のある人という結果が出ているが(平成二十年。内閣府)、『源氏物語』を読む限り、平安時代も似たようなものだったのではないか。
貴婦人が、親兄弟と夫以外の男には顔を見せなかった当時、女君に公然と近づけるのは、夫を除けば親兄弟。
そして『源氏物語』に頻出するのは養父や継父によるセクハラである。
十歳の時、拉致同然に源氏に引き取られた紫の上は、十四歳の折、父と頼みにしていた源氏に犯され衝撃を受け、やはり源氏の養女となって冷泉帝に入内した斎宮女御(のちの秋好中宮)は里下がりしていた二十三歳の折、源氏に口説かれ、“いとうたて”(ほんとに嫌)と不快感を示している。二十一歳で源氏の養女となった玉鬘も二十三歳で鬚黒大将と結婚するまで(この結婚も、彼女の同意のない、女房の手引きによる強姦同然のセックスがもととなっている)源氏にセクハラを受け続け、それをセックスと勘違いして“さま異〈こと〉にうとまし”(異常で厭わしい)と悩んでいる。
そうした合意のない性的行為に、女君たちは必ず嫌悪感を表明しているのも『源氏物語』の特徴で、それは相手が若くてイケメンの主人公である源氏であっても、色黒で鬚だらけの鬚黒であっても変わらない。
が、斎宮女御と玉鬘は共に二十三歳を越える大人だった上、斎宮女御はすでに人妻だし、玉鬘も求婚者たちのいる身なのでまだ逃れるすべもあった。
ところが紫の上だけは十四歳という幼さで、母はなく、父は正妻のもとにいて、源氏以外に頼る人のない立場だ。しかも斎宮女御はことばだけ、玉鬘は愛撫だけであったのに対し、紫の上は何の予備知識もないまま源氏に犯されてしまう。そのショックは大変なもので、
「なんでこんなに嫌らしいお気持ちのある方を、疑いもなく頼みに思っていたのか」(“などてかう心うかりける御心をうらなく頼もしきものに思ひきこえけむ”)
と、情けなくて起き上がることもできなくなってしまう。その様子が、
「男君は早々にお起きになって、女君はいっこうにお起きにならない朝がある」(“男君はとく起きたまひて、女君はさらに起きたまはぬあしたあり”)[「葵」巻]
という一文で表されている。
紫の上は十歳で引き取られて以来、源氏と一緒に寝るのが常になっていたので、はた目には“けぢめ”(違い)は分からなかったのだが、それまで“姫君”と記されていた紫の上が、“男君”と対になる“女君”と称されることで、二人のあいだに性的関係があったことがにおわされ、しかも女君が起きてこないと記すことによって、彼女が心身に受けた痛手が浮き彫りになっているわけである。
そんな紫の上を、源氏は一日中、慰める。けれど、紫の上の気持ちは容易にほぐれない。それが源氏にとっては「ますます可愛らしい」(“いとどらうたげ”)わけだが、紫の上の初夜が本人にとっては不意打ちの不幸なもので、源氏の気持ちを信じていたことが心底情けない感じていたことが明記されていることに注目してほしい。
紫式部は、主人公の源氏の面目を丸つぶれにしてでも、望まない性行為を強いられた女の当然の対応を描きたかったのである。
が……女君本人の気持ちとは裏腹に、世間的に見れば、孤児同然だった紫の上が、源氏に正式の妻扱いされるということは素晴らしい幸運だ。紫の上の乳母などは、源氏の厚遇ぶりに感動して涙ぐみ、紫の上の“幸ひ”(幸運)を世間の人も褒め称える。現世の運不運は前世の善悪業の報いと考えられていた当時、幸運な人は尊敬の対象となっていたのだ。
新婚家庭の経済は妻方が担っていた平安貴族社会では、紫の上のような身寄りのない、財産のない姫君は、正式な妻ではなく愛人扱いされるのが関の山だった。
物語が進むにつれて『源氏物語』ではそうした現実的な、「関の山」の男女関係がメインになっていくし、予期せぬ性関係に戸惑い苦しむ女君と、それを幸運と見る周囲(女房や世間)との認識のズレもますます肥大化して、一つの大きなテーマとなっていく。
その時、女子はどう振る舞うべきなのか……。
紫の上のケースによって、周りがどう思おうと、本人は嫌がってもいいのだ、ということを紫式部はしかと描く。それはあたかも「痴漢に遭ったら大声で叫びましょう」「痴漢は犯罪です」といったスローガンのようなもの。こうしたスローガンが必要なのは、痴漢を罪悪視しない人たちがいるからで、私が子供だった一九六〇年代は電車に痴漢はつきものだったし、それが逮捕されるほどの犯罪であるという認識もなかった。性の描かれ方において、これと同じ構造が、『源氏物語』以前の物語と『源氏物語』にはある。
とはいえ、まだ十四歳で、逃げる場所も方法も知らない紫の上は、そのまま源氏の妻になる。なりつつも、十数年後、源氏が養女の玉鬘に好色心を抱いているのを見抜き、さらにその数年後、源氏が女三の宮を正妻に迎えた時は、自身のなし崩し的な結婚を悩んでいる。
「源氏に初めて犯された時、紫の上は嫌だったのだ」という事実は、その後の『源氏物語』の構成に影響を及ぼし、紫の上の違和感は、宇治十帖の姫たちにまで持ち越されることになる。
(『源氏物語の教え』より抜粋)