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梅田は東京の匂いがする? 加藤政洋『大阪』より

記事:筑摩書房

original image: beeboys / stock.adobe.com
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1 梅田の都市景観

駅頭の風景

JR大阪駅の中央口を出て、コンコースから右手の中央南口へと進む。駅舎となかば一体化した、巨大なサウスゲートビルディングの通路を抜けると、そこは「大阪駅前」の交差点だ。

ドイツの思想家ヴァルター・ベンヤミンは、初めてモスクワを訪れた際、次のように述べたことがある。

すでに駅前で、モスクワの街はその姿を提示しているように思われる。キオスク、アーク灯、家屋群が結晶して、二度と回帰しない形象となる。(「モスクワ」)

たしかに大阪に関しても、昭和30年代末、「大阪駅についたとき、ただちに展開するキタの景観は、そのままに大阪の象徴として印象づけられるであろう」、と述べた人物もいた(宮本又次「キタ」)。


しかしながら現在、大阪の駅頭に立ったとしても、街々の形象(イメージ)が来訪者の心のなかに結晶することはないだろう。駅とその周辺には、空をみることも忘れさせるくらいに、高層・巨大な建築物が充塡され、空間を埋め尽くさんばかりの密度の高まりは、息苦しさを感じさせるほどだ。

交差点の向こうには、正面奥の梅田DTタワーを挟んで、第一生命ビル、大阪吉本ビルディングで営業するヒルトン大阪、そして阪急阪神百貨店の阪神梅田本店が並び建つ。

左方(東)に目をやれば、同じく阪急阪神百貨店の阪急うめだ本店、反対側の西方には、劇団四季の劇場を備えた複合商業施設ハービスENT、さらにその後方に、ハービスOSAKAのザ・リッツ・カールトン大阪がみえるだろう。

「大阪駅前」の交差点から、いま来たばかりの後方を振り返ると、大丸百貨店梅田店とホテルグランヴィア大阪の入るサウスゲートビルディング(旧称「アクティ大阪」)が壁のようにそびえ立つため、駅裏にあたる北側を見通すことはできない。そこには、サウスと対をなすノースゲートビルディングが大阪駅と直結して建ち、西館「LUCUA 1100」(ルクアイーレ/伊勢丹)と東館「LUCUA」からなる一体型の商業施設「LUCUA osaka」を収容している。

大阪駅は、それをサンドイッチする二つの大規模商業建築によって、市内有数の消費空間を形成しているのだ──実名を大阪ステーションシティという。

さきほど、あえて「駅裏」と呼んでみたが、この語句はもはや、実態をあらわしているとは言えないのかもしれない。それは、大阪駅の背後にひろがる広大な土地区画──梅田貨物駅の跡地(通称「北ヤード」ないし「うめきた」)──を、都心に残された最後の一等地として捉え、大規模に再開発する計画が実行されているからだ。跡地に立地したグランフロント大阪は、平面的であった土地利用を見事に立体化してみせた。未着手の西半部もあわせて、「うめきた」は、まさに都市のフロンティアというわけだ。

グローカル梅田

JR線の駅名は「大阪」である。だが駅前の町名は梅田(1~3丁目)となっているため、この一帯は「ウメダ」と呼称・表記されることも多い。それゆえ、大阪駅の周辺には、「梅田」の名を冠した鉄道駅や建物・事業所が、数多く立地している。

大阪駅を中心とした《梅田》の特色は、先ほど簡単にみておいたように、規模の大きい、あるいは高層の建築が集積しているところにある。電鉄ターミナルと連結した阪急・阪神百貨店、地元関西の呉服店から発展した大丸百貨店にくわえ、当初は三越伊勢丹を核としたルクアが、それぞれ200メートルと距離をあけずにひしめく。ランドマークとなる高層ホテルも駅を取り巻くように集まり、グローバル・チェーンの高級ホテルが3つも徒歩圏内にある(ヒルトン、インターコンチネンタル、ザ・リッツ・カールトン)。

低湿地を埋めて田にした「埋田」に由来するとも言われる梅田には、大阪―神戸間の鉄道である阪神と阪急(前身は阪神急行)が拠点をかまえ、それぞれターミナルと百貨店をおいたことにはじまり、東京発祥の百貨店(伊勢丹)、そして新宿区の旧地名を冠した家電量販店(ヨドバシ梅田)ばかりか、世界チェーンの高級ホテルまでもが、至近の土地に進出してきた。きわめつけは、「世界のとなり未来のちかく」という無国籍/無歴史を謳うトポス「グランフロント大阪」の登場だ。

現代大阪の玄関口《梅田》を彩る都市景観は、じつにローカル/グローバルである。

東京の匂い

「大阪で今、東京に対抗できるもんて何でしょう」──市政から退場した橋下徹(前市長)に関するインタヴュー記事のなかで、在阪タレントの浜村淳が問いかけた言葉である(「朝日新聞」2016年2月4日)。

織田作之助は、かつて「東京の標準文化なぞ、御免だと、三年間、東京にいる間に、愛想をつかした」(「東京文壇に与う」)と言い、同じく大阪出身の小説家である藤沢桓夫(1904―1989)は、「大阪は健在である。東京なんか屁とも思っていない」(「大阪の散歩道」)と述べたことがあった。

よしあしはともかく、また状況に応じて程度の差こそあれ、帝都・首都たる東京への対抗意識は、大阪の歴史と空間に、はっきりと刻み込まれている。

面白いことに、やはり大阪出身の小説家である黒岩重吾(1924―2003)が、大阪に内なる東京を見いだしたことがある。彼はこう述べていた──「梅田界隈は大阪駅の近くだけあって、何処か東京の匂いがする」、と(「どぼらや人生」)。

この一文を抜き出してきただけでは、やや意味が取りにくいかもしれない。黒岩は、大阪の代表的な盛り場として、梅田・難波・阿倍野という3つの「界隈」を列挙する。そして、先ほどの引用文につづけて、梅田界隈は「バーは一流バーが集っているし、喰べものなども、高い」と補ったうえで、次のような比較をしてみせた。

それ〔梅田界隈〕に対して、ミナミと呼ばれる難波界隈は最も大阪的な盛り場である。法善寺、道頓堀、千日前、マンモスキャバレーを始め、バーなども庶民的だ。喰べものも安い。
最後の阿倍野界隈は…〔略〕…ここはぐっと庶民的な街である。

梅田界隈のどこがどのように東京的であるかはわからないものの、難波を「最も大阪的」であるとする黒岩の指摘は、(地理学者エドワード・レルフの言葉を借りるならば)逆に大阪にあって「没場所」的な盛り場が梅田界隈であった、ということを示している──ここで、彼が「ミナミ(難波界隈)とキタ(梅田界隈)」と表記していたことも、急いで付け加えておこう。

東京的/大阪的と対置される梅田と難波──通称「キタ/ミナミ」──の空間的な特色を理解することは、この都市を知るための第一歩となる。

(『大阪』より抜粋)

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