1. じんぶん堂TOP
  2. 哲学・思想
  3. 旧約聖書に秘められた人類誕生の謎に迫る 長谷川修一『謎解き 聖書物語』より

旧約聖書に秘められた人類誕生の謎に迫る 長谷川修一『謎解き 聖書物語』より

記事:筑摩書房

original image: pict rider / stock.adobe.com
original image: pict rider / stock.adobe.com

なぜ人は土でつくられたのか

 創世記では、神は土(ヘブライ語でアダーマー)のちりを使って人をつくります。なぜ土なのでしょうか。これにはおそらくふたつのことが関係しています。ひとつ目は、この物語を書いた人たちにとって、土がもっとも身近で自由に形をつくることのできる材料だったということ。そしてふたつ目は、人間の肉体が死後に土中で分解されていくことです。

 旧約聖書の冒頭に収められたこの人類誕生の物語が書かれたのは、いまから2500年ほど前の西アジアです。当時はもちろんまだプラスチックなどはありませんでした。金属はありましたが、人間の肉体が硬い金属でできていないことはあきらかです。人びとは神々の像を青銅でつくりましたが、同時に神々や人間、そして動物の像をつくるのに粘土も利用しました。土器は調理や食事のときに当時の人びとが毎日使う日用品でした。土器をつくる職人も身近にいたことでしょう。そして何よりも、ちょうど粘土が崩れて土に還るように、人間も土中に埋葬してしばらくすると、やがて骨だけを残して形を残さなくなることを、土葬が一般的だった当時の西アジアの人びとは、自らの観察によって知っていたのです。

 しかし、たんに土をこねて形をつくっただけでは、それは動くものにはなりません。そこで神は土でつくった人の鼻に「命の息吹」を吹き込みます。すると人間は生きるものとなりました。鼻に神が息吹を吹き込んだことによって生きることになった、という描写も、古代の人びとによる人間観察に基づいているのでしょう。神はこうして生きるようになった人間を「アーダーム」と呼びます。

「アダム=人」のことば遊び

 当時の読者は、ここにことば遊びが隠されていることに気づいたことでしょう。「土(アダーマー)」から「人(アーダーム)」をつくったのです。この後、このアーダームという単語はこの物語に何度も出てきます。ただ、面白いことに一部の例外を除き、これらすべてには「ハ」という定冠詞がついて、「ハ・アーダーム」という形で出てくるのです。

 定冠詞というのは、英語だとtheに当たり、原則として、一般名詞について固有名詞にはつきません。英語にはアーダームというヘブライ語に由来するAdamという人名があります。人名は固有名詞ですので、「私はAdamです」という文はI am Adam.であって、I am the Adam.ではありません。

 このことは何を示しているのでしょうか。定冠詞がつかないアーダームは固有名詞、すなわち人名ではなく、一般名詞であることを示しているのです。そうなると、「アーダーム」を「アダム」という人名として訳すのはじつは誤っていることになります。正確には「人」と訳すべきでしょう。つまり、神は自分が土のちりでつくり、命の息吹を吹き込んで生きるようになったものを「人」と名づけたのです。

なぜ人間が生みだされたのか

 ところで、なぜ神は人間を創造したのでしょうか。人間をつくった目的について、創世記は直接語りません。西アジアに伝わる『エンキとニンマハ──人間の創造』や『エヌマ・エリシュ』、『アトラ・ハシース』といった古代の文学作品には、やはり神々が人間をつくる描写があります。そのなかでは、人間をつくった目的が、神々の苦しい労働を代わりに行うため、とはっきり述べられています。人間をつくる前、神々自身が自分たちの食べるものを得るためにはたらき、自分たちの家、すなわち神殿をたてていたのです。

 創世記の物語のなかで、神は自分がつくった人間に命令を与えます。そこから人間がつくられた目的を読みとることができます。すなわち「うめよ、ふえよ、地に満ちて、これをしたがわせよ」というものです(1章28節)。人間が地上で行うべきこととして神が命じたのは、地上で数を増やし、大地を「したがわせる」ということでした。

 このことばだけ読んでも、人間がつくられた目的はあまりはっきりしないかもしれません。しかし創世記の他の箇所とくらべてみると、「うめよ、ふえよ、地に満ちよ」という部分が神の祝福のことばであることがわかります。数が増えることを、古代の西アジアの人びとは神からの祝福と考えていました。飼っている家畜の数が増えることも、子どもがたくさん生まれることも、自分が神から祝福されたしるしだ、と考えていたのです。この点は、他の古代西アジアの神話とずいぶんちがいます。人間は神々の労働を肩代わりするためにつくられたのではない、と創世記はいっているのです。

地をしたがわせる人間

 次に「したがわせよ」ということばについて考えてみましょう。大地をしたがわせるとはどんなことを意味するのでしょうか。「したがわせる」という動詞は、『旧約聖書』のほかの箇所で使われている用例などとくらべることによって、ここでは「支配する」という意味で使われていることがわかります。つまり、人間に大地を支配するよう、神が命じているのです。

 創世記が書かれたころ、すでに西アジアでは農耕がさかんに行われていました。農作物の成長には水が欠かせません。西アジアでは日本よりも雨が少なく、年間降水量が東京の三分の一以下のところもあります。こういう地域で農作物が育つことのできる場所はかぎられていますから、人びとはやがて灌漑を行うようになります。川の水を畑に流して作物を育てるようになったのです。自然に流れている川の水を畑にひくには大工事が必要です。人びとは集まり、力を合わせて作業しました。おおぜいの人が集まって作業するためには指導者がいります。こうした指導者がやがて王などの支配者になっていったと考えられています。

 このようにして、人はそれまで乾燥していた大地にはたらきかけ、それに新たな役割を与えることに成功しました。この様子を観察し、まるで人が大地を思うがままにしている、と当時の人びとは考えたのかもしれません。創世記ではこうした人間による大地へのはたらきかけを「したがわせる」という表現であらわしたのではないでしょうか。

土に仕える人間

 この部分だけを読むと、あたかも人間は自然を好きに使っていい、といわれているようにも思えるかもしれません。実際、これまで人間は自然にはたらきかけ、その姿を大きく変えてきました。私の故郷にはセメントの材料となる石灰が採掘される山があるのですが、採掘によって年々山の姿が変わっていくのを帰省するたびに目にします。ニュースで耳にする環境破壊も、人間の直接的・間接的な自然へのはたらきかけの結果によるものです。はたして、創世記は人間による環境破壊をゆるしていることになるのでしょうか。

 今日の自然破壊の原因はキリスト教の自然観にある、とする声が、しばらく前にヨーロッパで、そして少し遅れて日本でも叫ばれるようになりました。その自然観は、『旧約聖書』、とりわけ創世記のこうした記述に根ざしているというのです。しかし、創世記のなかには人間のつとめを次のように記す箇所もあります。

 神ヤハウェは彼(人)をエデンの園から追い出し、彼(人)がそこから取られた土に仕えさせた。(3章23節)

 ここでは先ほどの「地を支配する」という表現とは対照的に「土に仕える」という動詞が使われています。この動詞については「耕させる」という日本語訳もあり、むしろこちらのほうが一般的です。しかし、この動詞は基本的に「(人に)仕える」を意味し、名詞になると「家来」や「奴隷」という意味になります。先ほどは人間が大地の支配者でしたが、今度は人間が土の世話をする存在になる、と記されているわけです。まるで逆のことをいっているように思えるかもしれません。たしかに、このふたつの記述だけをくらべてみると、矛盾しているように見えます。

仕える支配者

 このふたつをあえて同じ意味合いで使っているとするならば、支配者とは、任されたものを世話する存在なのだ、ということになるでしょう。「支配する」ということばを「仕える」ということばでいいかえることによって、支配するものと支配されるもの、というふたつの対立する存在の見方そのものを変えることができます。まったく別の角度から見ることによって「支配する」の定義を変更しているのです。「仕える」ということばを用いることによって、自然対人間という対立関係が消えてしまいます。

 この一見矛盾に見えるふたつの考え方がともに創世記のなかに収められていることこそ、私は大切だと思います。人間は自然を支配するもので、それは神の命令なのだ、という考え方と、神は人間を自然の世話をするものとしてつくったのだ、という考え方です。こうした矛盾は、読者の間でその意味をめぐって議論となります。ある問題をめぐって議論をするということは、その問題についてよく考えることにつながります。こうして考えてみるとすでに古代において、自然破壊という問題に人びとは気づいていたのです。

(『謎解き 聖書物語』より抜粋)

ページトップに戻る

じんぶん堂は、「人文書」の魅力を伝える
出版社と朝日新聞社の共同プロジェクトです。
「じんぶん堂」とは 加盟社一覧へ