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思考は単なる物語である ラス・ハリス『幸福になりたいなら幸福になろうとしてはいけない』

記事:筑摩書房

original image: Татьяна Максимова / stock.adobe.com
original image: Татьяна Максимова / stock.adobe.com

自己批判の思考はほとんど役に立たない

 ACT(アクト/アクセプタンス&コミットメント・セラピー)では、思考が事実であるかどうかは重視しない。それよりずっと大切なのは、その思考があなたの助けになるか否かだ。助けになる思考であれば、注目するだけの価値がある。そうでないなら、それを気にかける必要がどこにあるだろうか?

 私が職場で手痛いミスを仕出かしたとしよう。私の心はつぶやく、「お前はダメな奴だ!」。これはあまり助けにならない。状況を好転させるためにすべきことを何も教えてくれず、ただやる気をくじくだけだ。自分を卑下しても何も起こらない。私がすべきことは行動を起こすこと、能力を向上させるか、誰かに助けを求めることだ。

 あるいは、私が肥満気味だとしよう。心の声は言う、「お前は脂肪のかたまりみたいだな! 自分の腹を見てみろ、醜いったらありゃしない!」。これもあまり助けにならない。自分を責め、過小評価し、やる気をなくさせるだけだ。食べるものにもっと注意を払おうとか、エクササイズをしようという気も起きず、自己嫌悪に陥るだけである。

 自分の思考が事実かどうか考えるのは時間の無駄だ。あなたの心は議論を何度でも仕掛けてくる。時にはそれが必要な時もあるが、多くの場合は意味がなく、莫大な時間を費やすだけだ。

 それよりも、「この思考は自分の役に立つだろうか? 自分の望む人生を実現する行動をとらせてくれるだろうか?」と問いかける方がはるかに有益だ。思考がプラスに働くなら注目すべきだが、そうでないなら脱フュージョンしよう(脱フュージョンとは、思考とそれが指し示すものが混じりあった状態──フュージョン──から脱することを指すACTの用語)。「でも……」とあなたは言う。「そのネガティブ思考が役に立つものだったら? 自分に「お前はデブだ」と言うことが体重を減らすモチベーションになるとしたら?」。もっともな話だ。ネガティブ思考があなたを駆り立てる原動力になるなら、それを使わない手はない。

 だがほとんどの場合、自己批判の思考は役に立つ行動の動機にはならない。こうした思考は(それとフュージョンすればの話だが)私たちに罪悪感、ストレス、うつ、苛立ち、不安の感情を起こさせる。肥満の問題を抱えている人は、もっと食べることで不快な感情を追いやろうとする。気分を少しでも良くしようというむなしい努力だ。ACTではあなたの生活の質を向上させる効果的な行動に重きを置く。今は、あなたを批判、侮辱したり、裁いたり落ち込ませたり、叱るような思考はすべて、モチベーションを下げこそすれ上げることはないと言っておこう。困った思考が頭に浮かんだら、以下の質問が効果的だ。

  • これは古い思考だろうか? 以前からあったものだろうか? 再び耳を傾けることによって何かプラスがあるだろうか?
  • この思考は人生を向上させるための効果的な行動を起こさせてくれるだろうか?
  • この思考を信じることによって何を得られるだろうか?

 ある思考が役立つかどうか判断がつかない時は、自分に以下の質問をしてみよう。

  • この思考は、私がなりたい人間になるための助けになるか?
  • 求めている人間関係を得るための助けになるか?
  • 自分が価値を置いているものとつながるための助けになるか?
  • 長い目で見て、豊かで満ち足りて、意味ある人生に導いてくれるか?

 これらの質問の答えがイエスなら、その思考は役立つものだろう(イエスでなければ多分役には立たない)。

思考を深く信じ込むことには用心すべき

 ACTでは思考は基本的に「物語」であるという考え方をする。思考は、複数の言葉が合わさって、私たちに何かを伝える。さて、思考が物語であるならば、どれを信じるべきかをどうやって判断すればいいだろう? 答えは三つの部分からなる。

 まず、思考を深く信じ込むことには、くれぐれも用心すべきだ。私たちはみな何らかの信念を持っているが、それを信じれば信じるほど、自分の態度や行動から柔軟性が失われていく。自分の考えを絶対的に信じている相手と論争する時、あなたが相手の主張がいかに的外れかに気づいていても、彼らは決して自分の見方以外のものを受け入れないだろう。私たちはこうした状態を、硬直した、頭が堅い、心が狭い、視野が狭い、自分の見方に固執する、などと表現する。

 また、過去の経験を思い出してみると、あなたの信念が時間と共に変化していることに気づくだろう。かつてあなたが固く信じていたことが、今は馬鹿馬鹿しく感じられることもある。たとえば、あなたはかつて子供に贈り物を持ってくるサンタクロースやイースターのウサギ、歯の妖精、ドラゴン、小鬼、吸血鬼を信じていたかもしれない。また、ほとんどの人が、人生のある時期、宗教や政治、お金、家族、健康などについての信念を変える。覚えておいてほしい、すべての信念は事実かどうか以前に物語なのだ。

 次に、あなたの人生を豊かで満ち足りた、意味あるものにする思考があれば、それを人生のガイド、モチベーションとして使おう。だが同時に、それがあくまで物語であること、言語から作られたものであることを忘れてはいけない。それを使うことは問題ないが、しがみつくべきではないのだ。

 三つ目。ACTでは、心が語りかけてくることを無条件に受け入れるよりも、現実に起きていることに注意を向けることを強く勧めている。あなたがいわゆるインポスター(偽物)症候群にかかっているとしよう。インポスター症候群の人々は、有能にふるまい、うまく仕事をやり遂げたとしても、自分は偽物だという考えを拭えない。彼らは自分がしていることがよく分かっていない。インポスターたちは自分の体験に十分に注目せず、よい仕事をしているのが明らかな場合でもそれに気づかない。彼らは逆に、自分を批判する心の声に耳を傾けてしまう。「お前は自分が何をしているのか分かっていない。そのうち皆は見抜くさ、お前が偽物だってことを」

私もインポスター症候群に悩まされてきた

 医者になりたての頃、私自身がひどいインポスター症候群に悩まされていた。「ありがとう、あなたは素晴らしいお医者さんです」。患者にそう言われた時、私は思ったものだ。「でもあなたが本当の私を知ったらそうは言わないでしょうよ」。私は褒め言葉をけっして受け入れることができなかった。実際のところ私は仕事をうまくやり遂げていたのだが、私の心は、お前は役立たずだと囁き続け、私はそれを信じた。

 何か失策を犯した時は、それがどんなに些細なことでも、次の言葉が頭に浮かんだ。「私は無能だ」。当時の私はひどく取り乱し、その思考が絶対の真実だと信じ込んでいた。やがて私は自分を疑いはじめ、自分が下すすべての決断にイライラし始めた。あの胃の痛みは誤診じゃなかったか? 処方した抗生物質はあれでよかったっけ? 何か重大な見落としをしたんじゃないだろうか?

 時にはそうした思考に反論してみた。「誰だってミスは犯すものだ。たとえ医者だって」「今までのミスで、重大なものは一つもなかった」「結局のところ仕事はうまく行ってるじゃないか」。自分がうまくやり遂げたことのリストを作ったり、患者や同僚から受けた褒め言葉を思い出してみたこともある。自分の能力について、ポジティブな肯定の言葉を繰り返したりもした。だがどれもネガティブな思考を追い払ってはくれず、悩みを止めてもくれなかった。

 今日でも、私がミスを犯すたびに「私は無能だ」という言葉が浮かんでくる。だが、以前と違ってそれに悩まされることはない。私がそれを真剣に捉えなくなったからだ。私はこれらの言葉が、居眠りをする時に目を閉じるような、自動的な反応であることを知っている。私たちの頭に浮かぶ思考のほとんどは選択されずに消えていく。私たちが何かを計画したり、心の中でリハーサルをしたり、クリエイティブになっている時、選ばれる思考はほんのわずかなものだ。ほとんどの思考は頭の中に勝手にわき上がってくるだけだ。一日数千の役に立たない思考が生まれる。どんなに辛辣で残酷で、愚かで、悪意に満ち、批判的で恐ろしげで、あるいはまったく訳の分からないものであっても、私たちは思考がわき起こるのをどうすることもできない。だが、それに真剣に取り合う必要もないのだ。

 私の場合、「私は無能だ」の物語は医者になるずっと前から、人生のあらゆる面でまとわりついていた。ダンスの練習からコンピュータの利用まで、ミスの度に「私は無能」の思考が呼び起こされる。いつも同じ言葉というわけではない。「この間抜け!」あるいは「何もまともにできないのか?」など、別の言葉が浮かんでくることもある。しかし、私がこれらの思考の本当の姿を知っている限り、問題にはならない。それは頭に浮かんできたいくつかの単語でしかない。あなたが心のつぶやきにではなく、今この瞬間の経験に没入すればするほど、人生を望む方向に導く力が強められるのだ。

(『幸福になりたいなら幸福になろうとしてはいけない』より抜粋)

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