思考は単なる物語である ラス・ハリス『幸福になりたいなら幸福になろうとしてはいけない』
記事:筑摩書房
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ACT(アクト/アクセプタンス&コミットメント・セラピー)では、思考が事実であるかどうかは重視しない。それよりずっと大切なのは、その思考があなたの助けになるか否かだ。助けになる思考であれば、注目するだけの価値がある。そうでないなら、それを気にかける必要がどこにあるだろうか?
私が職場で手痛いミスを仕出かしたとしよう。私の心はつぶやく、「お前はダメな奴だ!」。これはあまり助けにならない。状況を好転させるためにすべきことを何も教えてくれず、ただやる気をくじくだけだ。自分を卑下しても何も起こらない。私がすべきことは行動を起こすこと、能力を向上させるか、誰かに助けを求めることだ。
あるいは、私が肥満気味だとしよう。心の声は言う、「お前は脂肪のかたまりみたいだな! 自分の腹を見てみろ、醜いったらありゃしない!」。これもあまり助けにならない。自分を責め、過小評価し、やる気をなくさせるだけだ。食べるものにもっと注意を払おうとか、エクササイズをしようという気も起きず、自己嫌悪に陥るだけである。
自分の思考が事実かどうか考えるのは時間の無駄だ。あなたの心は議論を何度でも仕掛けてくる。時にはそれが必要な時もあるが、多くの場合は意味がなく、莫大な時間を費やすだけだ。
それよりも、「この思考は自分の役に立つだろうか? 自分の望む人生を実現する行動をとらせてくれるだろうか?」と問いかける方がはるかに有益だ。思考がプラスに働くなら注目すべきだが、そうでないなら脱フュージョンしよう(脱フュージョンとは、思考とそれが指し示すものが混じりあった状態──フュージョン──から脱することを指すACTの用語)。「でも……」とあなたは言う。「そのネガティブ思考が役に立つものだったら? 自分に「お前はデブだ」と言うことが体重を減らすモチベーションになるとしたら?」。もっともな話だ。ネガティブ思考があなたを駆り立てる原動力になるなら、それを使わない手はない。
だがほとんどの場合、自己批判の思考は役に立つ行動の動機にはならない。こうした思考は(それとフュージョンすればの話だが)私たちに罪悪感、ストレス、うつ、苛立ち、不安の感情を起こさせる。肥満の問題を抱えている人は、もっと食べることで不快な感情を追いやろうとする。気分を少しでも良くしようというむなしい努力だ。ACTではあなたの生活の質を向上させる効果的な行動に重きを置く。今は、あなたを批判、侮辱したり、裁いたり落ち込ませたり、叱るような思考はすべて、モチベーションを下げこそすれ上げることはないと言っておこう。困った思考が頭に浮かんだら、以下の質問が効果的だ。
ある思考が役立つかどうか判断がつかない時は、自分に以下の質問をしてみよう。
これらの質問の答えがイエスなら、その思考は役立つものだろう(イエスでなければ多分役には立たない)。
ACTでは思考は基本的に「物語」であるという考え方をする。思考は、複数の言葉が合わさって、私たちに何かを伝える。さて、思考が物語であるならば、どれを信じるべきかをどうやって判断すればいいだろう? 答えは三つの部分からなる。
まず、思考を深く信じ込むことには、くれぐれも用心すべきだ。私たちはみな何らかの信念を持っているが、それを信じれば信じるほど、自分の態度や行動から柔軟性が失われていく。自分の考えを絶対的に信じている相手と論争する時、あなたが相手の主張がいかに的外れかに気づいていても、彼らは決して自分の見方以外のものを受け入れないだろう。私たちはこうした状態を、硬直した、頭が堅い、心が狭い、視野が狭い、自分の見方に固執する、などと表現する。
また、過去の経験を思い出してみると、あなたの信念が時間と共に変化していることに気づくだろう。かつてあなたが固く信じていたことが、今は馬鹿馬鹿しく感じられることもある。たとえば、あなたはかつて子供に贈り物を持ってくるサンタクロースやイースターのウサギ、歯の妖精、ドラゴン、小鬼、吸血鬼を信じていたかもしれない。また、ほとんどの人が、人生のある時期、宗教や政治、お金、家族、健康などについての信念を変える。覚えておいてほしい、すべての信念は事実かどうか以前に物語なのだ。
次に、あなたの人生を豊かで満ち足りた、意味あるものにする思考があれば、それを人生のガイド、モチベーションとして使おう。だが同時に、それがあくまで物語であること、言語から作られたものであることを忘れてはいけない。それを使うことは問題ないが、しがみつくべきではないのだ。
三つ目。ACTでは、心が語りかけてくることを無条件に受け入れるよりも、現実に起きていることに注意を向けることを強く勧めている。あなたがいわゆるインポスター(偽物)症候群にかかっているとしよう。インポスター症候群の人々は、有能にふるまい、うまく仕事をやり遂げたとしても、自分は偽物だという考えを拭えない。彼らは自分がしていることがよく分かっていない。インポスターたちは自分の体験に十分に注目せず、よい仕事をしているのが明らかな場合でもそれに気づかない。彼らは逆に、自分を批判する心の声に耳を傾けてしまう。「お前は自分が何をしているのか分かっていない。そのうち皆は見抜くさ、お前が偽物だってことを」
医者になりたての頃、私自身がひどいインポスター症候群に悩まされていた。「ありがとう、あなたは素晴らしいお医者さんです」。患者にそう言われた時、私は思ったものだ。「でもあなたが本当の私を知ったらそうは言わないでしょうよ」。私は褒め言葉をけっして受け入れることができなかった。実際のところ私は仕事をうまくやり遂げていたのだが、私の心は、お前は役立たずだと囁き続け、私はそれを信じた。
何か失策を犯した時は、それがどんなに些細なことでも、次の言葉が頭に浮かんだ。「私は無能だ」。当時の私はひどく取り乱し、その思考が絶対の真実だと信じ込んでいた。やがて私は自分を疑いはじめ、自分が下すすべての決断にイライラし始めた。あの胃の痛みは誤診じゃなかったか? 処方した抗生物質はあれでよかったっけ? 何か重大な見落としをしたんじゃないだろうか?
時にはそうした思考に反論してみた。「誰だってミスは犯すものだ。たとえ医者だって」「今までのミスで、重大なものは一つもなかった」「結局のところ仕事はうまく行ってるじゃないか」。自分がうまくやり遂げたことのリストを作ったり、患者や同僚から受けた褒め言葉を思い出してみたこともある。自分の能力について、ポジティブな肯定の言葉を繰り返したりもした。だがどれもネガティブな思考を追い払ってはくれず、悩みを止めてもくれなかった。
今日でも、私がミスを犯すたびに「私は無能だ」という言葉が浮かんでくる。だが、以前と違ってそれに悩まされることはない。私がそれを真剣に捉えなくなったからだ。私はこれらの言葉が、居眠りをする時に目を閉じるような、自動的な反応であることを知っている。私たちの頭に浮かぶ思考のほとんどは選択されずに消えていく。私たちが何かを計画したり、心の中でリハーサルをしたり、クリエイティブになっている時、選ばれる思考はほんのわずかなものだ。ほとんどの思考は頭の中に勝手にわき上がってくるだけだ。一日数千の役に立たない思考が生まれる。どんなに辛辣で残酷で、愚かで、悪意に満ち、批判的で恐ろしげで、あるいはまったく訳の分からないものであっても、私たちは思考がわき起こるのをどうすることもできない。だが、それに真剣に取り合う必要もないのだ。
私の場合、「私は無能だ」の物語は医者になるずっと前から、人生のあらゆる面でまとわりついていた。ダンスの練習からコンピュータの利用まで、ミスの度に「私は無能」の思考が呼び起こされる。いつも同じ言葉というわけではない。「この間抜け!」あるいは「何もまともにできないのか?」など、別の言葉が浮かんでくることもある。しかし、私がこれらの思考の本当の姿を知っている限り、問題にはならない。それは頭に浮かんできたいくつかの単語でしかない。あなたが心のつぶやきにではなく、今この瞬間の経験に没入すればするほど、人生を望む方向に導く力が強められるのだ。
(『幸福になりたいなら幸福になろうとしてはいけない』より抜粋)