1. じんぶん堂TOP
  2. 歴史・社会
  3. 『東京』遷都は歴史的必然ではなかった!? 松山恵『都市空間の明治維新』より

『東京』遷都は歴史的必然ではなかった!? 松山恵『都市空間の明治維新』より

記事:筑摩書房

original image: oka / stock.adobe.com
original image: oka / stock.adobe.com

「単頭・中央集権国家」の首都へ

近現代の日本の首都である東京は、近世武家政権・徳川幕府の拠点だった江戸を基盤に成立した。

日本列島のなかで地理的にはほぼ同じ一帯が、じつに400年あまりの長きにわたって政治権力の中枢都市としての地位を占めてきたことになる。たとえば現在の国道1号線は近世初頭に整備された東海道を踏襲したものであるように、道路や掘割の配置、また宅地形状といった物理的な側面において、江戸と東京(とくに中心部)は連続している(陣内秀信『東京の空間人類学』筑摩書房、1985年)。

しかしながら、江戸と東京のあいだには、見過ごせない質的な違いや断絶があることも確かだ。


第一に、それぞれが背景とする政治・社会体制が大きく異なる。

たとえば、次に引用するのは幕末に書かれた随筆の一節だが、いわゆる三都(京都・大坂・江戸)が天皇の在所・経済的中心・政治の場所といった重要な役割を列島内で分掌している構図がみてとれる。

京ヲ見ザレバ、我邦(わがくに)ノ百王一姓、万国ヨリ尊キヲ知ラズ、大坂ヲ見ザレバ、我邦産物多ク……江戸ヲ見ザレバ、我邦ノ人口衆(おお)ク、諸侯輻輳(ふくそう)シ(以下略)(広瀬旭荘『九桂草堂随筆』)

江戸はいわば武都ではあったが、それはあくまでも古代からの権威である京都の天皇・朝廷と並存し、同時に、260あまりの藩=大名家が列島全体に展開するという仕組み(「双頭・連邦国家」体制、『都市空間の明治維新』「はじめに」参照)のもとにある都市だった。

対して、東京はどうか。次掲は明治末期のものだが、ここからは「総て(の)政治上の機関」や天皇のあらたな在所(「皇居」)にくわえ、「日本全国」の「あらゆる総ての仕事」・「総ての文化」の「中心」に、東京が位置づけられていることに気づく。江戸時代にはおもに京都に対する形容句だった「花の都」が、もはや当然のように東京の「讃称」とされている点も興味深い。

花の都と云ふは我が東京市の讃称である……此の花の都は、所謂東京湾を控へて居て、海陸交通の至便なる上に、一天万乗の大君が此所に皇居を据ゑさせられ給ふので、総て政治上の機関がみな此の地に集って居るのである。随て商工業は申すに及ばず其の他教育と云ひ美術と云ひ工芸乃至(ないし)は宗教等、あらゆる総ての仕事の中心と云ふものは皆此の東京に置かれてある。即ち総ての文化と云ふものは此の東京を源として日本の全国は申すまでもなく清韓諸国までも及ぼし(以下略)(石川天崖『東京学』)

端的にいって、東京は明治に入ってから「単頭・中央集権国家〈単一国家〉」の頂点にあらたに立った都市である。19世紀なかばにおける幕府から維新政府への政権交代をへたのち、後者が江戸- 東京を唯一の拠点都市=首都に位置づけ、そこを拠点に中央集権化を進めていった結果、つくりだされていったのだ。

その過程では、まずは明治初年のうちに新政府のトップに据わるそれまで京都に居た天皇および朝廷が江戸-東京へとそっくり移動し(遷都)、かつ当然のなりゆきとして、そこの都市空間を舞台にいわば新旧の支配層の取り換えなどもおこなわれる必要があった──そして実際、それはおこなわれた──ことはいうまでもない。

しかし、これまでは明治維新に関する研究関心の偏りなどのため、上記の過程については十分に検討されてこなかった。

さらに付け加えていえば、明治初年におけるこれら一連の出来事は、たんに政治機能の問題にとどまらず、一般の人びとの生活空間をふくむこの歴史都市のさまざまな側面に多大な影響をおよぼす発端となったことは、『都市空間の明治維新』(第Ⅱ部・第Ⅲ部)で明らかにしているとおりである。

歴史的必然ではなかった江戸-東京の首都化

さて、検討を進めていくにあたり、前提となる既往研究(とくに文献史料にもとづく政治史分野)の成果をふまえるところからはじめよう。幕末の京都、およびそこを拠点に樹立された維新政府の遷都構想などについては佐々木克氏の研究にくわしい(「東京「遷都」の政治過程」『人文學報』66、1990年/『江戸が東京になった日』講談社、2001年)。

開国にともなって内政は大混乱におちいり、それまでの天皇と将軍、さらには朝廷と幕府とのあいだの権威関係もまもなく逆転し、最重要の案件は天皇・朝廷が決裁するという仕組みが構築されていく。

すでに文久2年(1862)、幕府は、本来的には列島各地の沿岸防備を念頭に、諸藩に対して江戸への参勤交代制を緩和させる処置を下していたが、そのかたわらで、京都は政治の都としての性格を日増しに濃くしていく。たとえば同年後半から諸大名・諸侯の上洛が相次ぎ、さらに翌年には将軍もじつに二百数十年ぶりとなる京都入りを果たす。さらに禁門の変(元治元年〔1864〕)が起きたあたりからは、有力藩や朝廷とのつながりを重視する各藩はみずからの拠点(藩屋敷など)を京都のなかにあらたに確保し、数多くの藩士がそこに投入される動きも加速した。

これは事実上、江戸の幕府機能の一部、および長らく同地に置かれていた各藩の屋敷(江戸藩邸)がになっていた役割の一定部分が、京都へと移動する事態といってよい。すなわち「三都」の一角をなす武都としての江戸はその性質を低下させる一方、古代以来の王権の基盤である京都がその地位を奪取しつつあったのである。

それからまもなくの倒幕をへて、天皇を中心とする一元的な王政復古を目指す維新政府が樹立されると、その流れは一層強まる。そのままいけば、京都が近現代日本の首都になるはずだった。

しかしそうならなかったのはなぜなのか。結論からいえば、新政府の首脳らが政権運営の見地から、みずからの拠点を京都以外の都市へと移動させること(もしくは、京都を依然重要視しつつも、他の都市にも一定の拠点を築くこと)を積極的に模索したからである。

たとえば、政府の最重要人物のひとり大久保利通は、はやくも鳥羽伏見の戦い(慶応4年〔明治元、1868〕正月三日)のころから、因習のはびこる京都からの遷都を主張していく。「数百年来一塊シタル因循ノ腐臭ヲ一新」するためという強烈な言葉で朝廷(改革に否定的な公家ら)を批判し、大坂への遷都を主張した。

かたや、当時同じく政府中枢にいた大木喬任・江藤新平(ともに佐賀藩出身)は、やや遅れて同年閏四月あたま、京都にくわえてもうひとつの政府拠点をもうける考え=東西両都論をとなえた。

彼らはいまだ東国でつづく戊辰戦争の景況をみきわめつつ、同地方の安定のためにも江戸を東京に位置づけなおすことを主張する。すなわち、朝敵である旧幕府の本拠地だった江戸を天皇が親臨する地としてランクをあげ、京都(西京)と同格の都市にするとともに、この2つの京のあいだを天皇が行き来をすることで政権運営しようとしたのである。ただし、その実現のためには鉄道開設が不可欠とも考えられており、当時としては難しい話だった(周知のように、長距離の鉄道敷設が日本で可能になるのは明治5年開業の東京〔新橋〕―横浜間からである)。

実現性にとぼしい東西両都論ではあったものの、一定の効果はあった。たとえば、現在につづく東京という都市名は「自今(じこん)江戸ヲ称シテ東京トセン」という東京設置の詔書(明治元年7月17日)にもとづくが、これはまさに大木らの意見書をきっかけにするものだった。ついで、それまで京都にとどまっていた天皇がそこを離脱し、同年10月13日から初めての東京滞在(東幸)を果たすことにもつながった。

以上のような紆余曲折をへて、江戸-東京はようやく政治的中枢に返り咲くスタート地点に立ったのだった。ただし、それはこの明治元年なかばの段階では、あくまでも京都を前提とする存在であり、いまだ一極の拠点=首都ではなかった点は注意を要する。実際、天皇は東京に数ヶ月滞在ののち、同年12月には京都に戻っている。

なお、こうした明治のごく初年における一連の試行錯誤のそのときどきの判断や結論を、新政府が表だって明らかにすることはなく、関係する文献史料も限られる。したがって、実際の歴史過程(遷都などの進展度合い)をそこからつかむことはかなり難しい。

そうした制約のなか、新政府が日本の首都を東京に置くことを事実上表明したのは(政府が東京への遷都を宣言することは結局一度もなかったのだが、文献史料をもとに推定すると)、東幸から1年以上も後のこととされる(高木博志「東京「奠都」と留守官」『日本史研究』296、1987年)。具体的には、京都と東京を往復していた天皇が明治3年(1870)3月の京都行きを延期し、そしてまもなく留守官(後述する天皇の「再幸」によって太政官が東京へと移転されたのち、京都に置かれていた官衙のこと)が機能を失う太政官布告(同年12月22日)が画期とみなされているのである。

(『都市空間の明治維新』より抜粋)

ページトップに戻る

じんぶん堂は、「人文書」の魅力を伝える
出版社と朝日新聞社の共同プロジェクトです。
「じんぶん堂」とは 加盟社一覧へ