「組み体操問題」を労働安全衛生法の観点から考えてみる 木村草太『子どもの人権をまもるために』
記事:晶文社
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子どもの権利の理論と体系を頭で理解することは、それほど難しいことではないだろう。しかし、実際に子どもの権利が問題となる現場で、子どもの権利の理論に沿った対応を行うのは必ずしも簡単ではない。
例えば、運動会の組み体操について考えてみよう。近年、議論を呼んでいるが、学校の運動会で、高さが7段、8段、場合によっては10段もあるような人間ピラミッドが作られたり、高さが3、4メートルに達するような人間タワーが作られたりする。高さが高いうえに、足場が不安定だから、骨折などの重大なけがを負ったり、後遺症が残ったりする子どもも少なくない。過去には、死者も出ている。
ちなみに、労働者の安全を守るために制定された労働安全衛生法に基き制定された労働安全衛生規則(労働省令)は、2メートル以上の高さで作業する際には、手すりや命綱、安全ネットなどの転落防止措置をとるよう要求している。組み体操では、手すりや命綱の用意など不可能だから、子どもたちがいかに危険な状態に置かれているかはわかるだろう。それにもかかわらず、学校では「みんなで協力することの大切さ」や「見る人の感動」を理由に、危険な組み体操をなかなかやめようとしない。つまり、子どもたちを「けがをしたってかまわない存在」として扱っている。これは、子どもたちを一人の自律した人格として扱うものではない。危険な組み体操への参加を子どもたちに強制することは、組み体操を実現する「道具」として子どもたちを扱うことだ。これは、教育とは言い難いだろう。
子どもの権利を考えるうえで重要なことは、「権利侵害があまりに一般化していると、それを権利侵害と認識することが難しい」ということだ。
例えば、アメリカ全土で黒人奴隷が禁止されたのは1865年のことだ。それ以前には、「白人には、黒人奴隷を使う権利がある」と考える人も多く、「奴隷制度の禁止は白人の財産権侵害」だと裁判所が判断したことすらあった。あるいは、割増賃金を払わない時間外労働は労働基準法違反であるにもかかわらず、「サービス残業」が当たり前になっている現実がある。
こうした状況を打開して、権利がきちんと実現される社会を創っていくには、どうしたらいいのか。まずは、日々の生活の中で辛いと思っていることを、まず口に出してみることが必要だ。その時、辛さを口にした本人も、それを聞いた相手も、「辛いけど、我慢するしかない」と思うことも多いだろう。しかし、そこでもう少しだけ考えてほしい。「本当にそれは我慢すべきことなのだろうか」と。
社会を変えるための行動をとるのは、とてもエネルギーがいる。自分一人のことを考えたら、場合によっては、黙って我慢する方が楽かもしれない。でも、あなたが感じている「辛いこと」は、ほとんどの場合、あなただけの辛さではない。日本中で、世界中で、同じ辛さを感じている人がいる。そこには、より良い社会を創るための鍵がある。
私たちが「子どもだから仕方ない」と思っていることの中には、「仕方ない」で済ませてはならない重大な権利侵害がたくさんあるはずだ。子ども時代に「仕方ない」と我慢せざるを得ない状況が続けば、大人になっても「社会を変えられる」という気にはならないだろう。それでは、いつまでたっても社会は変えられない。
子どもの声に耳を傾け、「そこに権利侵害はないか」「大人の責任を果たしているか」と問い続けなければならない。
(『子どもの人権をまもるために』より抜粋)