明日は今日よりもっとひどくなっているかもしれない社会で 鷲田清一『パラレルな知性』
記事:晶文社
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専門家に何でもおまかせして安楽に暮らすそんな信頼の過剰な社会から、専門家は市民の声を十分聴き取らず、他方市民は専門家の言うことを何でもかんでも訝しむ、そんな相互不信の過剰な社会への激しい揺り戻し。いま、わたしたちの社会はそういう不安定な状況にある。
原発事故処理についていえば、いま世論は段階的な廃炉に向かって大きく動きだしているようにみえるが、それについても、そもそもが核廃棄物、さらには今回放射能に汚染された土や水の処分にはじまり、廃炉の作業プロセス、再生エネルギーによる発電技術の開発、東北の農業・漁業・産業の復興、被曝者の治療とケアまでふくめ、専門家の知見と技術なしにはありえないことである。それらはこれから、専門研究者・技術者を中心に、わたしたちの社会が長い時間をかけて取り組まなければならない重い課題である。
ところが一方で、「原子力工学」を志望する学生が、今後急激に減ることが予想されている。これらの課題を担う次世代の専門研究者・技術者の養成に赤信号が点っているのである。そしてその背景にはさらに、工学部志望の学生数が目減りしているという現象もある。
高度成長期から高度消費社会に向けて社会が疾走しているとき、工学部は大学のなかでもとりわけ威勢のよい学部・研究科であって、この間拡張に拡張を重ねてきた。若い人たちは、産業界から提供されるまずは便利な、次に「かっこいい」製品に眼を輝かせ、いずれそれを創る側に回ることを夢とする学生も多かった。
新幹線の到着が数分遅れただけでニュースになり、郵便の遅配や停電もめったに起こらない「安心」な国、品質管理に優れ、医療も高度で、深夜に一人で歩いていてもさして危険を感じないでいられる「安全」な国……。社会の「安心」と「安全」がこの国の高度な科学・技術に支えられてきたことは疑いようもない。が、それをこれからも支えてゆかねばならぬ次世代の研究者・技術者の育成に陰りが見えはじめている。廃炉のためのみならず、この国の基幹産業のためにも、
そうしたプロの研究者・技術者は不可欠なのに、である。
そこで「ものづくり」がこの国を支えてきたというキャンペーンがいつごろからか展開されるようになった。けれどもそういうかけ声が工学研究を志望する学生を増やしているかといえば、とてもそんなふうには見えない。農作にあらたに取り組む若い所帯は数からすればほんのわずかではあれ増えているのに、である。
いまの若い世代は、「右肩上がり」の社会というものを経験したことがない。ものごころついたときはすでにバブルが崩壊し、不況の暗い空気が社会を覆っていた。そしてそれからずっと、景気も労働環境も悪化することはあっても、回復する兆しは見えない。「右肩上がり」の社会が、「明日は今日よりきっとよくなる」という空気を吸って生きていられる社会だとすれば、「右肩下がり」の社会は、「明日は今日よりもっとひどくなっているかもしれない」という感覚が日々のくらしを包む社会である。そんな社会のなかで、しかも生まれたときから商品が飽和状態にあるような社会のなかで、こんなモノがあったらいい、こんなモノを作れば社会の発展に役立つ……といった新しいモノづくりへのモチベーションなど、湧いてこようはずもない。
思い起こせば一九九六年のこと、村上龍の小説『ラブ&ポップ』が、「援助交際」の実態をではなく、それにさしたる抵抗もなく移行してゆく若い人たちの感受性を彼女たちの側から描いて話題になった。いまこんなに欲しくてたまらない指輪も、明日になればもう欲しくなくなっているかもしれない。アンネ・フランクのドキュメンタリー番組をテレビで観て、泣いて、心がグシャグシャだったのに、朝起きてみるとシャンプーで洗い流したかのように「心がツルン」として、「何かが、済んだ」ようになっている……。そんな描写を重ねながら、村上は、人びとの欲望の立ち上がり方に静かだが大きな変容が生まれていることを浮かび上がらせた。
欲望のこうした変容は、村上の描いているように、時間感覚の変容をともなう。時を未来から現在へと流れ来るものとしてではなく、現在から過去へと流れ去るものとして感じるというセンスである。いまこんなに欲しくてたまらない指輪も、明日になればもう欲しくなくなっているかもしれない……という感覚である。
「右肩上がり」の時代はそうではない。高度成長期以降、産業はすべて時を先駆しようとするものだった。プロジェクトの立ち上げから、そのためあらかじめなす利益(プロフィット)の見込み(プロスペクト)の計算、事業の計画(プログラム)、生産(プロダクション)工程、販売促進(プロモーション)、そして約束手形(プロミッソリー・ノート)による支払い、事業の進展(プログレス)の確認とその後のスタッフの昇進(プロモーション)というぐあいに、生産から営業まで、プロスペクティヴとでもいうべき前傾姿勢で事にあたってきた。「先に」とか「予め」「前もって」を意味する接頭辞「プロ」がついた行動の、見事なまでのオンパレードである。先にトレンドを捉え、先に事業を起こした者の勝ち、というわけだ。
川上から流れてくるものをいちはやく掴むこと。これは橋の上に立って川の流れ(=時)を水が流れ来る方向に向かって眺めるという感覚だ。これに対して、『ラブ&ポップ』の女子高校生は、いわば逆方向を見ている。橋の上に立って足下の水が川下へと流れ去り、やがて消えてゆくのを眺めるという感覚である。いまもっともリアルなものもやがて消えゆくことに、眼をとめているのである。
一九九六年に高校生だった主人公たちは、数えるといま三〇歳くらいになる。とすれば、いまの二〇代の人たちはずっとそんな感覚を生きてきたことになる。この世代の人たちがもしそんなふうに時代を受けとめているのだとするなら、明日は今日よりもきっとよくなる、いやよくならねばならないという「成長」のスローガンは、ずいぶん遠くから幻聴のようにしか響いてこないはずだ。ここらあたりに、いまどきの工学部離れの深因があるように思えてならない。
もちろんこれに付随して、併せ考えねばならないいくつか別の理由もあるだろう。研究室員が日夜一丸となっておなじ研究課題に取り組み、学生の卒業研究も講座の研究活動の下請けのようになっているそんな自由のなさというのも、遠因としてあるかもしれない。
大学の人件費の削減のなかで、いずれの教授も外部資金獲得のために奔走し、書類作成に明け暮れて、とても研究に集中できているようには見えず、さらにその外部資金で大学院生がようやっと特任研究員として採用されても平均三年くらいの任期付きでしかないので、次の職を任期途中から捜さねばならず、落ち着いて研究に集中できないといったふうに、先輩たちの仕事ぶりに接してもとても輝いているふうには見えず、これは割に合わないなと考えて進学を見合わせるということも、きっとあるにちがいない。
これらのことを考え合わせると、工学部志望の学生の減少というのはかなり根の深いことのようにおもわれる。このあたりから考えなおさないと、わたしたちの社会がこれからも必要とするほんとうのプロは育たない。
(『パラレルな知性』より抜粋)