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なぜロリコン漫画はなくならないのか 永山薫『増補 エロマンガ・スタディーズ』より

記事:筑摩書房

original image: Shuu / stock.adobe.com
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罪という名の補助線

ロリコン漫画を見ていく時に、仮に「罪」という補助線を引いて見るとわかりやすい。そもそもロリコン漫画とは通常のエロ漫画以上に「いけないこと」をあえて描き/読み、「ロリコン者」を身振ることから始まっているからだ。

その上でなおかつ初期ロリコン漫画のイデア重視は「罪の意識」を回避するためだったと見ることもできるだろう。

性表現がどんなに解放されようともロリコン漫画は「罪を巡る物語」として読むことができる。いや、そうあり続けることがアイデンティティというケースさえあるだろう。これはあらゆるポルノ的な表現形式においてもいえることではなかろうか? セックスとエロスが禁忌の側面を持ち続ける以上、「罪」はいつまでもつきまとうのである。

無論、フィクションであるエロ漫画の中で成年男子と十三歳未満の少女、あるいは幼女の間に恋愛感情が芽生え、現実の法では禁止されている性行為(現行法では同意の上でも強姦罪が成立する)に至ったとしても、淫乱な少女が男を漁って次々と交わろうと、凶悪なレイパーが通園バスを襲撃しようとも、虚構は虚構である。重要なのは創作物として、あるいは商品として優れているかどうかにすぎない。だが、たとえフィクションであっても、描く側、読む側の意識として、それを現実と完璧に切り離せるかといえばそうではない。また、幸か不幸か我々には法とは別次元の倫理観というものがある。私ですら「こんなちっちゃな子にこんなヒドイことしちゃう漫画を他人様にオススメしちゃっていいのか、人として?」という脊髄反射を起こしそうになることだってある。

何をヒドイこと、許せないことと感じるかは個人の価値観である。ただ、ロリコン漫画の特殊性は、処女性の侵犯、性差別、無垢なる者への侮辱、弱者への虐待など読者の多くが抵抗を感じるであろう要素が、その他のジャンルと比べても多いという点にかかわってくる。

さらにややこしいことには、世間からの圧力がある。

「ロリコン漫画なんか読んでる(描いている)よ、アブナイんじゃないの」

と白眼視され、差別されることへの恐怖がある。頭の痛いことだが、同業者でもロリコン漫画を「人間として許せない」と非難する連中もいる。エロ漫画家同士ですら差別は存在するのだ。まあ、馬鹿はどこの世界にもいるということだが、それじゃすまないのが対人関係である。

にもかかわらず、ロリコン漫画は滅びない。九〇年代初頭の大弾圧後、しばらくは低調だったが、また復活した。「禁忌」と「抵抗」があればこそ、それらを侵犯した時のカタルシスもまた大きいわけだ。

言い訳は読者のために

「罪」という補助線を引いて真っ先に浮かび上がるのが一連の言い訳系の作品群だ。この手の作品は、言い訳にならない言い訳を用意することによって「罪の意識」を回避または緩和しようとする。

「少なくとも僕の側には愛があったんです」

「最後には彼女も気持ち良くなっていたから結果として和姦ですよ」

という強姦犯の月並みな言い訳がここでも援用される。

さすがにここまであからさまな言い訳は説得力が弱いため減っているが、決してなくなりはしないだろう。世の中は、

「くだらん奴隷道徳は捨てたらどうだ?」

とうそぶくことのできる高踏派の精神貴族だけでできているわけではない。

読者側に言い訳のニーズがあれば、作者もそれに応える。

相思相愛だから、向こうから誘ったから、合意の上だから、援助交際だから、相手が淫乱だから、だから、だから、だから……。法的には全然オッケーじゃないにしても、「だから」でなんとなく救われたような気分になる。学級委員長的な倫理観でいえば、

「そんなの卑怯だと思います」

なのだが、言い訳があれば作者も読者も多少は気が楽になる。

(『増補 エロマンガ・スタディーズ』より抜粋)

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