余計なものならいらない!? 日本人だけが持つ「なにもない」美意識とは?! 高階秀爾『日本人にとって美しさとは何か』より
記事:筑摩書房
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千利休の朝顔をめぐるエピソードは、比較的よく知られた話であろう。利休は珍しい種類の朝顔を栽培して評判を呼んでいた。その評判を聞いた秀吉が実際に朝顔を見てみたいと望んだので、利休は秀吉を自分の邸に招く。ところがその当日の朝、利休は庭に咲いていた朝顔の花を全部摘み取らせてしまった。やって来た秀吉は、期待を裏切られて、当然不機嫌になる。しかしかたわらの茶室に招じ入れられると、その床の間に一輪、見事な朝顔が活けられていた。それを見て秀吉は大いに満足したという。
このエピソードに、美に対する利休の考えがよく示されている。庭一面に咲いた朝顔の花も、むろんそれなりに魅力的な光景であろう。しかし利休は、その美しさを敢えて犠牲にして、床の間のただ一点にすべてを凝縮させた。一輪の花の美しさを際立たせるためには、それ以外の花の存在は不要である。いやそれどころか邪魔になるとさえ言えるかもしれない。邪魔なもの、余計なものを切り捨てるところに利休の美は成立する。
だが庭の花を摘み取らせたことの意味は、余計なものの排除という点にだけ尽きるものではない。花のない庭というのは、それ自体美の世界を構成する重要な役割を持っている。期待に満ちてやって来た秀吉は、一輪の花もない庭を見て失望し、不満を覚えたであろう。茶室に入ったときも、その不満は続いていたはずである。そのような状態で床の間の花と対面したとすれば、何もなしに直接花と向き合ったときと較べて、不満があった分だけ驚きは大きく、印象もそれだけ強烈なものとなったであろう。利休はそこまで計算していたのではなかったろうか。
つまり床の間の花は、庭の花の不在によっていっそう引き立てられる。このような美の世界を仮りに一幅の絵画に仕立てるとすれば、画面の中央に花を置くだけでは不充分であり、一方に花が、そして他方に何もない空間が広がるという構図になるであろう。日本の水墨画における余白と呼ばれるものが、まさしくそのような空間である。
この「余白」という言葉は、英語やフランス語には訳しにくい。西洋の油絵では、風景画でも静物画でも、画面は隅々まで塗られるのが本来であり、何も描かれていない部分があるとすれば、それは単に未完成に過ぎないからである。だが例えば長谷川等伯の《松林図》においては、強い筆づかいの濃墨の松や靄のなかに消えて行くような薄墨の松がつくり出す樹木の群のあいだに、何もない空間が置かれることによって画面に神秘的な奥行きが生じ、空間自体にも幽遠な雰囲気が漂う。また、大徳寺の方丈に探幽が描いた《山水図》では、何もない広々とした余白の空間が、あたかも画面の主役であるかのように見る者に迫って来る。
もともと余計なもの、二義的なものを一切排除するというのは、日本の美意識の一つの大きな特色である。京都御所の紫宸殿の庭は、西欧の宮殿庭園に見られるような花壇や彫像や噴水はまったくなく、ただ一面に白い砂礫を敷きつめただけの清浄な空間であり、あらゆる装飾や彩色を拒否した簡素な白木造りの伊勢神宮は、今日に至るまでもとのままのかたちで受け継がれ、生き続けている。伊勢神宮の式年造替(遷宮)が始まったのは紀元七世紀後半のこととされており、建物の原型もほぼその頃に成立したと考えられているが、当時日本にはすでに、大陸からもたらされた仏教が一世紀以上の歴史を経て定着しており、それにともなって「青丹よし奈良の都」と言われる通り、多彩な仏教寺院建築も、奈良をはじめ日本の各地に建てられていた。仏教寺院の場合、建築工法も、柱を礎石の上に置き、屋根は瓦葺きという進んだやり方で、掘立柱、萱葺きの伊勢神宮より、保存性もはるかに高い(それゆえに、伊勢神宮は二十年ごとの建て替えが必要となる)。伊勢神宮でも、周囲にめぐらされた高欄の部分などに仏教建築の影響が認められるから、その造営にあたった工匠たちが大陸渡来の新技術を知らなかったわけではない。だがそれにもかかわらず、日本人は敢えて古い、簡素な様式を選び取り、しかもそれを千三百年以上にわたって保ち続けた。そこには、余計なものを拒否するという美意識―信仰と深く結びついた美意識―が一貫して流れていると言ってよいであろう。
もちろん、その一方で、仏教美術の隆盛に見られるように、壮麗多彩なものを求める美意識も、日本人の大きな特色である。絵画の分野においても、水墨画と並んで、金地濃彩の大和絵や華麗な近世風俗画などに見られる装飾性が、日本美術の際立った特質であることは、たびたび指摘されて来た。実際、水墨画の本場である中国から見れば、日本美術はもっぱら華やかな飾りもののように見えたらしい。日本絵画について書かれた最も早い外国の文献である一二世紀初めの『宣和画譜』は、宋の徽宗皇帝のコレクションが所蔵する日本の絵画作品について、「設色甚だ重く、多く金碧を用う」と評している。美術愛好家のこの皇帝の手に渡った日本の作品が実際にどのようなものであったかはわからないが、禁欲的な水墨画とは対照的に、華麗な装飾性に富んだものであったことは確かと言ってよいであろう。
だがその金色燦然たる作品においても、日本の場合、中心のモティーフ以外の余計なものはすべて拒否しようという意識が強く認められる。例えば、代表的な作例として、光琳のよく知られた《燕子花図屛風》がある。西欧の画家なら、水辺に咲き誇る花を描き出そうとするとき、池の面、岸辺、土堤、野原、おそらくは空の雲など、周囲の状況を残らず再現しようとするであろう。現に私は、ある外国人から、このかきつばたの花はいったいどこに咲いているのかと尋ねられたことがある。だが光琳は、利休が庭の花を切り捨てたように、そのような周囲の要素はすべて排除してしまった。そのために用いられたのが、あの華やかな金地である。つまり金地の背景は、同時に不要なものを覆い隠す役割を与えられているのである。
あるいは、近世初頭に多く描かれた「洛中洛外図」がある。そこでは、二条城をはじめ、著名な神社仏閣などの名所、町並み、年中行事である祭りの情景などが描き出されているが、それぞれの場面は、金雲と呼ばれる雲型の装飾模様で取り囲まれていて、われわれはあたかも雲の間から京都の町を覗き見るというような印象を受ける。結果として、町のなかには大量の雲が漂うという状態で、これも外国人からしばしば質問を受ける点である。だが金雲によって縁取られているからこそ、中間のつなぎの部分は覆い隠されて、各場面が何を表わしているかということがよくわかるのである。
室内の情景を表わしたものとしては、これも江戸期に好んで描かれた「誰が袖図屛風」がある。これは衣桁にかけられた衣裳を中心の主題としたものだが、その衣桁が置かれた室内の様子は、壁も畳も一切描かれていない。時には画面に双六盤やお盆の湯吞みのセットなど、人間の存在を暗示する小道具が描かれていることもあるが、登場人物の姿も消されてしまっている。このような「不在による存在の暗示」という手法は、日本美術の常套手段の一つで、「留守模様」という優雅な名称すら与えられている。そしてここでも人物の代わりに登場して来るのは、一面の金地表現である。
とすれば、このような金雲や金地は、もちろん一方で華やかな装飾効果を目指すものであるには違いないが、同時に、余計なものを排除する役割も担わされていることになる。それはいわば、黄金の「余白」に他ならないのである。
金屛風は、今日でも、結婚の披露宴や何かの祝賀パーティにおいてしばしば用いられる。だがそれは決まって無地の金屛風である。昨年の末、私はソウルの日本大使館が開催したパーティに参加したが、そこでも会場入り口に金屛風を立てて、大使が客を迎えていた。その時、同行した韓国の友人が、この金屛風はいかにも日本的だという感想を漏らした。聞けば、韓国においてもお祝いの席などに金屛風はよく登場するが、そこには必ず、松とか鶴などの吉祥モティーフが賑やかに描かれているという。無地の金屛風では、何か物足りなくて、淋しい感じすらするというのである。何も描かれていない一面の金地画面は、そこに日本人の独得な美意識を浮かび上がらせているのである。
(『日本人にとって美しさとは何か』より抜粋)