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ついこの間まであった礼儀のかたち 『小津映画 粋な日本語』より

記事:筑摩書房

original image: wassei / stock.adobe.com
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 小津映画で、敬語がその場にふさわしい敬意を運ぶのは、自分の立場や相手との関係、場の違いなどに応じて、ことばが適切に使い分けられているからである。これは敬語だけの問題ではない。たとえば、『東京物語』で、母親役の東山千栄子が訛ったアクセントや独特のイントネーションで口にする「ありがと」「さよなら」といったことばの響きは、映画を見終わったあとまで、しばらく耳に残る。印象に残るのはいかにも心のこもった言い方に響くからだろう。が、こういう美しい日本語も、相手の顔をまともに見ながらあんなふうに口にするのは、今はなにか照れくさい。

 これはむろん、『東京物語』だけの特殊事情というわけではないし、純粋にことばだけの問題でもない。たとえば、『戸田家の兄妹』という戦前の作品でも、三女の節子は母に、「ね、お母さま、今日ね、銀座でとてもおいしそうな佃煮があって、よっぽど、昌兄さまのとこへお送りしようかと思ったんだけど、やめちゃったの。お母さまにもっと頂いとけばよかったと思って」と言う。親子の間の対話らしく親しい調子を保ちながら、母親を「お母さま」と呼び、兄のことも「兄さま」と呼ぶなど、いずれも「さん」でなく「様」待遇とし、「もらう」でなく「頂く」、兄の所へも「お送りする」と謙譲語を用いるほどの表現レベルだ。ここまではことばの問題だが、何を頂くのかという対象について口に出さない点に注目したい。

 実はこの前に、節子が友人の時子(桑野通子)に、「あたしにおごらして。今日、お母さまに頂いて来たの」と、自分がご馳走することを申し出、「来かけに道の真中で頂いたの。誰か見てやしないかと思って恥しかったわ」と説明する場面がある。ここでも、母に何を「頂いた」のかという肝腎の情報がきれいに省かれている。かつての日本文化では、金銭というものを不浄なものと考え、それを意味することばを口にしないように努めたようで、言わずにわからせるのが、ひとつのたしなみであった。いっしょに食事をしたあと、そんな不浄な話題を避ける意味合いもあって、誰かが黙ってさっさと支払いを済ませるのが粋だった時代のことである。現代ではそんな粋が通用しないから、帰り際にそれとなくトイレに身を隠してみても、もくろみははずれ、自分で払うはめになるのは必至だろう。

 その当時は、道の真ん中で金銭の受け渡しをするのは、それこそたしなみのない証拠であり、その現場を他人に見られるとひどく恥ずかしかったにちがいない。麹町の屋敷町で生まれ育った、そんな節子の価値観のあらわれた発話なのだろう。しかし、相手の時子のほうは、「だめだめ! そんな事が恥ずかしくちゃ」と応じているから、そういうたしなみがすでに古くなりかけていたことがうかがわれる。とはいえ、金銭のことをあまり露骨に表現することなく相手に察してもらおうとする、あの時代の気品が感じられよう。札をむきだしでなく封筒に入れて手渡す心くばりはまだ生き残っているようだ。

 人前で露骨に言うことを控えていたのは金銭だけではない。『秋日和』では、秋子とアヤ子の親子が、小綺麗なとんかつ屋で食事をして、立ち上がるときのやりとりにも、今では考えにくいほどの配慮が見られる。アヤ子が「お母さんミシンの針買うんでしょ?」と言うと、秋子は「それからタのつくもの」と、クイズめいた答えをする。鯛も鱈も蛸も、たらば蟹も、タンドリーチキンも、たまねぎも、たらの芽もあるなかで、アヤ子が「アア、タラコ?」と大きな声で正解を叫ぶ。すると、みんなに聞こえるわよというふうに、秋子ははしたない娘を軽く睨む。人前で金銭や食べ物の話をするのはたしなみがないと、あからさまに口に出すのをためらう、そんな時代がたしかにあったのだ。

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