日本の「教育格差」を確かめる 松岡亮二『教育格差』「はじめに」より
記事:筑摩書房
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みなさんは日本の教育について、どれぐらい知っているでしょうか。肩の力を抜いて、次の3択問題に答えてみてください。
【質問1】親の学歴により、習い事や教育サービスなどの利用格差が顕著になるのは……
小学校就学前
小学校低学年
小学校中学年
【質問2】公立の小学校同士の間で学力格差が確認できるのは……
1年生から
4年生から
6年生から
【質問3】家庭の文化資源(蔵書数)による学力格差は、小学6年から中学3年までのあいだ学年が上がるにつれ……
拡大する
変わらない
縮小する
【質問4】戦後、教育格差(親の学歴と子の学歴の関連の強弱)は2000年頃から大きく……
拡大した
変わっていない
縮小した
【質問5】相対的貧困にある子供の数は1980年代と2010年代で比べると大きく……
増えた
変わっていない
減った
【質問6】授業以外でまったく学習をしない15歳(日本の高校1年生相当)の割合が最も高い国は……
アメリカ合衆国
フィンランド
日本
【質問7】日本の教育格差は国際(OECD)平均と比べて……
大きい
変わらない
小さい
全部で何問正解だったか、自己採点してみてください。詳しい説明は『教育格差』各章に譲ります。
【解答】質問1:小学校就学前(第2章)。質問2:1年生(第3章)。質問3:変わらない
(第4章)。質問4:変わっていない(第1章)。質問5:変わっていない(第1章)。質問6:日本(第6章)。質問7:変わらない(第6章)。
3択なので適当に選んでも正解する確率は3分の1――わたしたちのように様々な情報に曝されていないチンパンジーであっても3問のうち1問は正解するはずです(『FACTFULNESS』ロスリングほか2019)。もし全問不正解もしくは1問正解であるのならば、それはデータが示す教育の実態とあなたの考えには大きな乖離があることを示唆しています。2つや3つの正答でも、チンパンジーがウキッと何も考えずに選んだのとほとんど変わりません。
教育は自分の経験に基づいて自説を持ちやすい分野です。それに、メディアから流れてくる情報の嵐の中で冷静さを保ち、視界が歪まないようにすることは簡単ではありません。日本の教育格差の全体像を俯瞰し、実態理解に基づいた建設的な議論がされるようになることを願っています。
人には無限の可能性がある。
私はそう信じているし、一人ひとりが限りある時間の中で、どんな「生まれ」であってもあらゆる選択肢を現実的に検討できる機会があればよいと思う。なぜ、そのように考えるのか。それは、この社会に、出身家庭と地域という本人にはどうしようもない初期条件(生まれ)によって教育機会の格差があるからだ。この機会の多寡は最終学歴に繫がり、それは収入・職業・健康など様々な格差の基盤となる。つまり、20代前半でほぼ確定する学歴で、その後の人生が大きく制約される現実が日本にはあるのだ。
これは近年だけの話ではない。戦後日本社会には、程度の差こそあれ、いつだって「生まれ」による最終学歴の格差――教育格差があった。高度経済成長期にもあったし、1970年代の安定成長期にもあった。みなさんの感覚とは一致しないかもしれないが、1980年代後半のバブル景気に浮かれた時代にも存在した。もちろん、格差論が注目されるようになった2000年代にもあったし、「子どもの貧困」を扱う報道が珍しくなくなった2010年代も同様だ。そう、戦後日本社会に育ったあらゆる人にとって、教育格差は他人事ではなく、「古き良き時代」が存在したことはないのである。
生まれ育った家庭と地域によって何者にでもなれる可能性が制限されている「緩やかな身分社会」、それが日本だ。現行の教育制度は建前としての「平等」な機会を提供する一方、平均寿命が80歳を超える時代となっても、10代も半ばのうちに「身の程」を知らせる過程を内包している。「生まれ」による機会格差という現状と向き合い積極的な対策を取らなければ「いつの時代にも教育格差がある」ことは変わらず、わたしたちはこの緩慢な身分制度を維持することになる。それは、一人ひとりの無限の可能性という資源を活かさない燃費の悪い非効率な社会だ。
ただ、わたしたちは毎日とても忙しい。目の前にある仕事や家事をするだけで時間は過ぎていくし、疲労の蓄積は睡眠を求める。手が空いた細切れの時間を束ねて考えることができるほど、社会や制度の在り方は小さなテーマでもない。どうしても今日考えなければならない理由は特に見つからないし、先送りしても自分や身近な人が実際に吐血して倒れるわけでもない。
結果的に教育機会格差が存在する社会状況に根本的な変化を求める大きなうねりは発生しないまま、昨日のコピーのような今日が過ぎ去る。そう、このままだったら、また同じことの繰り返しになるはずなのだ。いや、「生まれ」による格差拡大傾向を示す兆しも散見されるから、昨日の忠実な複製であればまだよいだろう。まして、何もせずに格差が自動的に縮小する理由は見当たらない。良くても維持、おそらくは劣化したより厳密な「生まれ」による身分社会になっていく。
こんな現実の中で教育社会学の研究者である私にできることは、入手可能な質の高い様々な調査データを理論と先行研究に基づいて分析し論文にすることだ。そう信じてアメリカ合衆国で博士号を取得後、2012~19年の間に国内外の学術誌で20編の査読付き論文を発表してきた。ただ、これだけではいつまで経っても物事は変わりそうにない。そもそも16編は英字論文であるし、同業である研究者に向けて書いているので、一般のみなさんに届くわけもない。
そこで、過大評価も過小評価もせずに現時点でわかっている教育格差の全体像を一人でも多くのみなさんと共有することで、既視感だらけの教育論議を次の段階に引き上げることができればと、『教育格差』を執筆することにした。
(松岡亮二『教育格差』より一部抜粋のうえ、転載)