ブレイディみかこ著『花の命はノー・フューチャー DELUXE EDITION』書評
記事:筑摩書房
記事:筑摩書房
ロンドン五輪の閉会式などを見ると、ブリティッシュ・ロックは今やイギリスが世界に誇れるもののひとつになったのだなと思える。ロックはいつの間にか国を挙げて誇るようなものになっていた。けれどもそれはイギリスの支配層、「上」の人々が育てたものではない。
イギリスは二十世紀前半まで、歴史上で最も広い領土を持つ途方もない世界帝国だった。首都ロンドンはその地位をニューヨークに明け渡すまで、まさに世界の中心だった。今もそこには世界を支配した王室がある。けれどもその周辺には、アイルランド、ジャマイカ、インド等々かつての領土からの移民が住みつき、また下層階級の人々がひしめいている。
ビートルズから始まるブリティッシュ・ロックは、黒人音楽を基にしつつ、そうした周辺・下層の人々の音楽と混ざり合いながら育っていったものだ。さらには、ドラッグ・精神障害・狂気などのメンタルな異常、悪魔・魔術といった宗教的な異端、ゲイなど性的なマイノリティの文化等々、より幅広く異端文化を好んで取り込んできた。基本的には「上」や「中心」に対する「下」や「周辺」の反抗と緩い連帯の音楽だったのだと(過去形)、自分としては思っている。
本書はそんなロックのなかでも、パンクをこよなく愛する日本人女性によるイギリス暮らしエッセイだ。舞台はロンドンから電車で南に一時間下った海辺の街ブライトンの貧困地域。そこにはロウワー・ワーキングクラス、移民、ゲイ、生活保護受給者などが多く暮らしている。
著者の隣家の少年は、過去に二度結婚していたシングルマザーと二人暮らしで、腹違いの兄弟が六人いる。ローティーンの頃は電話ボックスや車をよく壊していて、子どもができてからも友人の盗品を売っている。著者の連れ合いはアイルランド系移民の親を持ち、ガラの悪いダンプの運転手たちをまとめる仕事をしている。心の友であるブラジル移民の女性とは、年に何度か安酒を飲みながら愚痴を言い合う。別の隣のミドルクラスの夫婦は口をきいてくれない。こんな環境で様々なトラブルが起こり、仲間内で助け合ったり、酒を飲んで慰めあったりしながらそれを乗り越えている。
こうした悪く言えば「粗野」で「下品」な人々のエピソードを読んでいると、どんどん心が晴れ、気が楽になっていく。
その印象はパンクを聴いた時にそっくりだ。パンクはロックのなかでも貧困寄りのジャンルであり、やはり様々な異文化が混ざりあってできている。何よりもやっている人間のガラと行儀が悪く、ふざけていて笑ってしまうほどだ。自分などは真面目に考えすぎてきつくなった時には、そんなふざけたパンクの曲を聴いて心を落ち着けていた。
歯に衣着せずに、言いたいことを言う筆者の文章も同じだ。イギリスが世界に誇る無償医療制度NHSにも、混みすぎていて予約が入れられず不満をぶつける。印象が同じなのは著者がパンク好きだからでもあるだろうが、そもそも著者自身がアジア系移民であり、貧困であり、それゆえに「上」の価値観から自由だからでもあるだろう。そしてパンクスと同様に、悪態の裏には同類への深い愛を隠している。
上流階級に憧れて上品ぶるのは馬鹿げたことだ。真面目すぎることにも問題が多い。もっと開き直ればいい。もちろん経済的な格差があることがいいというわけではないが、下品だろうが育ちが悪かろうが、気楽であるほうがはるかにいい。ちゃんとしないことは、「ちゃんとしろ」という上からの抑圧に対する真っ当な抵抗なのだ。
著者の末期癌の友人の交際相手であるベトナム人女性は、勤めていた銀行を辞めて看病に来ていたが、イギリスの下層社会があまりに自由に生きられるので、そうではないベトナムに帰るのが不安になってしまう。これと全く同じ不安を著者自身もかつて感じたという。世界のなかのアジアという「周辺」にいる日本の我々は、開き直って自由に生きることができているか改めて考えさせられる。
『ちくま』2017年7月号より転載