「歴史学の研究って、ロマンがありますね」 『歴史学で卒業論文を書くために』に寄せて
記事:創元社
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初対面の方に自己紹介をする。そこで、歴史を研究していることを話したら、よく言われるのが「歴史の研究って、ロマンがありますね」という言葉である。おそらく、これが歴史学ではなく、大脳生理学や国際政治学、マクロ経済学だったりしたら、そんなことは言われないのだろう。
恥ずかしながら、ロマンと言われても、どうもピンとこない。そこで手近な辞書を引いてみると「主情的ないし理想的に物事をとらえること。また、そのようにして把握された世界」と書かれている。用例としては「夢とロマン」が挙げられていた(『国語大辞典』小学館、1981年)。
歴史学を研究するにあたっては、できるだけ確かな史料を集めて、分析して論証をしていく作業の積み重ねである。そこで求められるのは「確からしさ」であり、そのためには緻密な史料の読解と精緻な論理が欠かせない。決して「主情的」でもないし、「夢やロマン」を語っているわけではない。
浮かびあがってくるのは、往々にして組織の論理や経済的利益をめぐる衝突だったりという、実に散文的な人間の姿なのである。でも、その人間的な部分にまた魅力を感じてしまうのだけれど。
歴史学という学問に対する漠然としたイメージの存在……。これ自体は、歴史学という学問への敷居の低さや親しみやすさとも関わっているわけだから、決して悪いことではないと思う。ただ、学問としての歴史学の方法や考え方をもっと多くの人に知ってもらいたいという思いはある。
相手が歴史好きなら、こう聞かれることもある。確かに、いっしょに“最強の戦国武将は誰か”なんて議論で盛りあがるのも、楽しそうではある。
しかし、これも実に答えにくい質問なのだ。歴史を研究しているからには、戦国時代の武将についてもさぞかし詳しかろう。そう思っていただけているのかもしれない。
だが、私には「好き」と言えるほどに詳しく理解している戦国武将などいないのだ。もちろん、ドラマや小説などをフィクションとして楽しみ、そこでかたちづくられたイメージとしての武将像はある。織田信長や豊臣秀吉、そして石田三成……。かれらには、いくつもの個性的なエピソードが語られており、なんとなくの人物像が共有されてはきていることは知っている。
とはいえ、そのエピソードは史実なのか。イメージは軍記物語、あるいは映画や大河ドラマでつくられたものではないか。そう考え始めると、ことは厄介になる。
織田信長の人物像を理解するには、後世の編纂物を排除して、まずはできるだけ同時代史料――彼自身やその家臣が発給した文書・公家の日記など――に基づいて再構成していく。そうした作業をしてはじめて織田信長像に接近できる。「好き」か「嫌い」かを語る以前には、まず正確な人物像を把握しなければならないのだ。こうして「評価」をすることができる段階になる。だけど、そこでするべき評価とは、彼の果たした歴史的な役割や意義といったもので、好き嫌いといった主観が入る余地はない。
こう書いてみたら、「何だ、学問の歴史学ってツマラナイものだ」と思われてしまうかもしれない。フィクションとしての歴史を楽しむことはもちろん否定するものではないし、その面白さはよくわかる。
でも、つくられたイメージやドラマや小説、ゲームなどで商品化された偶像としての歴史、他人が創り出したイメージをただ消費するだけではなく、そこから一歩踏み込んでみよう。自分で史料を読んでみて、自分の目で対象を見なおしてみる。そこでは意外な発見や新しい魅力があることだろう。
今は色んな情報に溢れていて、検索すれば簡単に「答え」が見つかるような気がしてしまう。でも、それは本当なのか? 自分で苦労して手に入れた「知」は、きっと何ものにも代えがたいものになるだろう。
「夢とロマン」や「好き」から始まって、学問としての歴史学に触れたとき、きっと新しい景色が見え始めてくるに違いない。
大学の史学科には、ありがたいことに多くの歴史ファン、歴史が大好きという学生さんがやってきてくれる。「歴史が好き」といってくれている彼ら、彼女らに、どうすれば「学問としての歴史学の面白さ」を伝え、少しでも実感してもらえるか。そうすれば、もっと「歴史」が面白くなってくるはず。いつも考えているのはこのことである。