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「とりあえず」という人生哲学 『表紙絵を描きながら、とりあえず。』

記事:白水社

『表紙絵を描きながら、とりあえず。』(白水社)
『表紙絵を描きながら、とりあえず。』(白水社)

 表紙絵を描きながら、とりあえず、ビール。

 なんてこともないわけではないのですが、絵をかいている間は、とりあえずここに雲をかいてみよう、このあたりに赤色で何かほしいな、とりあえずチューリップみたいな花をかいてみよう、というような、とりあえずとりあえずの連続です。週刊新潮の表紙絵ではこのとりあえずはあまりないのですが、ときどきかいている現代アートっぽい絵をかいているときは、とりあえずだらけです。自身の意識の奥底でうずくまっている気がする形と色、それをまさぐるように、引っ張り出すようにしてかいている絵なのですから、とりあえず色をぬり、とりあえず線を引いて何らかの形をかいてみるほかないのですね。そのとりあえずをつぶしたり、とりあえずから次のとりあえずのイメージが出てきたり、そんなとりあえずの連鎖のなかで、ふと、これで絵になったのかな、とキャンバスの図像の前に佇んで見つめ直して、はて、自分はこんな表現を探し求めていたのかと、己の感性に訝しんでみたり、納得したりしているのです。納得したときは新しい自分を発見したような、何かを創り出したような心持ちがして、うれしいですね。

 そんなわけで、とりあえず、なのです。

本書「母と見た『新宿泥棒日記』」P.140-141より
本書「母と見た『新宿泥棒日記』」P.140-141より

 このとりあえずは人生でも同じような気がして、とりあえず、とりあえずの結果ここまできたような、そんな思いになることもないではありません。そんなとき、さっきの絵の話じゃありませんが、とりあえずの連鎖の中で、ふと自分はこんな人生を求めていたのかと訝しみ、やがては諦めに、ときには納得に変わるもの、それが人生のような気がします。

 いま読んでいる本(モリス・バーマン『デカルトからベイトソンへ』)の中にこんな一文がありました。

 「ひとりの人間の性向、その精神と感情の秘かな働きというものは、穏やかな状況においてよりも、困難にもまれているときにこそその姿を明らかにする」

 たしかにそうだなあと思います。壁にぶつかったり、困難を抱えたとき、どう考え、どんなふうに振る舞ったかで、その人の姿が見え、それがその人の人生のかたちをつくっていく、ということですね。現在七十二歳のぼくは、これまでの人生で立ちふさがった壁、困難を思いうかべて、この言葉には深く頷きます。そしてそのさなかには、多くのとりあえずがあったことも思い出します。

 軽い気分で、とりあえず、と選択したこともあれば、悩みながら、とりあえずと選択した忘れることのできない振る舞いもありました。いずれにしても、そんなとりあえずの連鎖の果て、さらには子たち孫たちにもこの連鎖がつづいてゆくのでしょう。

本書「年賀状がこわい」P.196-197より
本書「年賀状がこわい」P.196-197より

 ところで、もしかしたら人間の歴史もまた、とりあえずの連鎖なのかもしれませんね。歴史上の人物のあのときのあのとりあえずの振る舞いがあって、あのようになったのだ、というようなこと、無数にあります。

 しかしまた、歴史の歯車を大きく回転させたのは、とりあえずではない、絶対的な信仰でありました。

 古代のとりあえずの神々を蹴散らかすようにして大文字のGODが出現し、その存在を証明するために、神学が起こり、幾多の論争が湧出し、その中から科学が生まれ、西洋の近代文明が起こりました。その根っ子には、GODという大きなフィクションが横たわっていたことの不思議さ。

 でもとりあえずの小さな神々はいまも活動していて、人々は、とりあえず、とりあえず、と暮らしています。しかしいま、ぼくらは近代文明の恩恵を受けながらも、その中から生まれ出た、それを食いつぶすような科学技術の破壊的な振る舞いを前にして怯えているのが実状です。百年ほど前だと一部の知識人が抱いていた「ぼんやりとした不安」(芥川龍之介)、いまでは誰もが抱いています。

 核戦争を含む世界的な戦争
 地球温暖化などの環境破壊
 破壊的な技術革新

 ざっくりといって、この三つがぼくらが直面している不安ですね。

 これらの解決のめどが立たない今日、大きな壁、困難な課題を前にして、ぼくらは、さて、とりあえず何をしたらいいのでしょう。

(本書「とりあえず、あとがき」より)

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