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歴史上初の戦闘に勝利したトトメス3世の奇襲戦術 『B.C.1177』より

記事:筑摩書房

original image:Olegauskas / stock.adobe.com
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 トトメス三世はつごう一七回の軍事遠征に出ることになるが、この最初の遠征に乗り出したとき、まさに文字どおり、彼は歴史書にその名を刻んだのである。というのも、前一四七九年の遠征の旅程や詳細は、途上で作成された日々の記録から転写され、後世に残すためということで、エジプトのカルナックにあるアメン神殿の壁に刻まれたからだ。この遠征中、メギド(のちには、聖書にあるハルマゲドンという呼称が有名になるが)でエジプト軍と戦ったのは、地元カナンの反抗的な首長たちだった。その場にいなかった人々にも広く知らせるため、詳細が書き残され公開されたという点では、わかっているかぎりこれは歴史上初の戦闘である。

  その銘文によると、トトメス三世はエジプトから兵を北上させ、わずか一〇日でイェヘムのあたりに達した。そこでいったん軍を止めて軍議を開き、どう攻めるのが最善か策を練った。メギドは城砦都市であり、周囲には臨時の陣営が敷かれていた。トトメス三世が王位に就いたとたん、エジプトに対して反旗を翻したカナンの首長たちが軍を置いていたのだ。イェヘムからメギドに至る道筋は三つあった。北の道は、ヨクネアムの近くでイズレル谷に出る。また南の道は、タアナクの近くでイズレル谷に入る。そして中央のルートは、まっすぐメギドに至る道だった。

  銘文によれば、将軍たちは北か南の道を選ぶよう勧めた。中央の道より幅が広く、待ち伏せ攻撃を受けにくいからだ。するとトトメスは、それこそカナン人たちが予想しているとおりの戦術だと答えた。中央の道は狭くて待ち伏せ攻撃に弱いから、そのルートを選ぶほどばかではあるまいと敵は考えるだろう。しかし、かれらがそう考えているからこそ、中央の道を進軍するのだ。そうすればカナン人の不意を衝くことができる。そしてまさにそのとおりになった。中央の道(さまざまな時代時代に、ワディ・アラ、ナハルイロン、あるいはムスムス峠とも呼ばれた)をエジプト軍が先頭からしんがりまで通り抜けるのに一二時間近くかかったが、全員かすり傷ひとつ負うこともなく通り抜けてみれば、メギドもそれを取り巻く臨時陣営も完全に無防備だった。カナン人の軍勢はすべて、北のヨクネアムと南のタアナクに配置されていたのだ。まさしくトトメス三世の読みどおりだった。トトメス三世が犯した唯一の失敗は、まだメギドを陥落させないうちに進軍を中断して、敵陣営の略奪を兵士に許してしまったことだ。この失敗のために、メギドの数少ない守備隊―ほとんどが老人と女子供だった―に都市の門を閉じる時間を与えてしまった。そのため攻城に手間どる結果となり、エジプト軍がメギドを落とすのにはそれから七カ月かかっている。

  およそ三四〇〇年後、第一次世界大戦中の一九一八年九月、エドマンド・アレンビー将軍〔英国の陸軍司令官。翌一九年には陸軍元帥になる〕はトトメス三世と同じ戦術をとり、同様の成功を収めている。メギドの戦いに勝利して、ドイツとトルコの兵士を何百人と捕虜にしたが、自軍からは馬数頭以外はひとりの死者も出さなかったのだ。のちに認めたように、アレンビーはトトメス三世の記録をブレステッドの英訳で読んでいて、歴史を再現しようと決めたのだという。かつてジョージ・サンタヤーナ〔スペイン生まれの米国の哲学者。一八六三〜一九五二〕は、歴史を学ばない者はそれをくりかえす破目になると言ったが、アレンビーは逆もまた真なりを証明してみせたわけだ。歴史を学ぶ者は、その気になればその成功をくりかえすことができるのである。

(安原和見=訳)

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