歴史研究の来し方行く末 川北稔『私と西洋史研究――歴史家の役割』
記事:創元社
記事:創元社
本書は、近代ヨーロッパ経済史の俊英・玉木俊明先生との対談と、川北先生による三つの長いコラムからなります。対談本の良いところは、語り口が平易になること、対談者の相乗効果により思いがけぬ展開が期待できることなどいくつかありますが、反面、内容が散漫になりがちで、読んでいる時は面白くても、読後感が薄くなるおそれがあります。
しかし本書の場合、最初から個人研究史を語りつつ、川北先生なりの「史学概論」を述べることを念頭に対談および編集が行われたため、そういう心配はほとんど当てはまりません。
「歴史学とは何か」という問いかけは、別の言葉では、歴史哲学とよばれています。[中略]しかし、専門の歴史哲学者の書物で、私が関心をひかれたものは、あまり多くはありません。[中略]同様に、歴史学の歴史、つまり史学史についても、それを専門にしている研究者の書かれたものには、あまり興味を引かれた経験がありません。歴史学の歴史もまた、個別の歴史研究に苦労を重ねた人が、自らの苦闘のなかで見出したもののほうが、はるかに面白いと思うのです。[中略]したがって、「史学概論」もまた、具体的なテーマを掲げた歴史研究のなかから出てきたものでなければ、空疎に響くと思います。
こうした問題意識から生み出されたこともあり、本書には「歴史家の役割」「日本人が西洋史を研究する意味」「西洋史研究のあり方」「世界史教育と日本人」といった項目が含まれています。といって、けっして難解ということはありません。それは川北先生の以下の発言からもおわかりいただけると思います。
つまり、ものすごく難しいことを言って、難しい顔をして、素人さんにはわかりませんというような話をするのは、歴史学ではないというふうに思っています。何とか大学の看板などは、なおさら関係がありません。[中略]言葉さえやさしくすれば普通の人が十分に理解できる、というのが歴史学の本筋だと思っているので、もってまわったような話は、僕はちょっとやりたくないという気分です。
本書にはまた、昔の研究風景がよく出てきます。インターネットが普及するよりはるか前の時代、外国の文献や情報を手に入れるのも一苦労で、コピー機もなく、貴重な文献を手書きで写していたそうです。研究者にしても、いまではちょっと考えられないくらい個性豊かな教授たちがたくさんいて、独特の世界があったようです。
いまとはまったく異なる環境下でどのように研究していたのか。西洋史研究にかぎらず、興味深いエピソードがたくさんあります。昔のほうが良かったと言うつもりはありませんが、便利になった一方で失われたものもあるような気がします。
「そんな専門的な話はわからない、昔のこともわからない」という人もいるでしょうが、そうならないように、本書にはたくさんの脚注を付けました。戦後西洋史に大きな影響を与えてきた錚々たる面々や時代背景がフォローされており、この脚注だけを眺めていても面白いと思います。
刊行後、面識のある先生から「よく調べたね。私たちにとっては懐かしく、いまの学生にとっては親切だね」と言われました。ほとんどは玉木先生が作成してくださったのですがね。
当初、この本にコラムを収録する予定は立っていませんでしたが、厚かましくも「せっかくなので書き下ろしのコラムも執筆していただけませんか」とお願いしたところ、川北先生は三つのコラムを執筆してくれました(イギリス衰退論/ブローデルとウォーラーステイン/研究の視座――『工業化の歴史的前提――帝国とジェントルマン』など)。
このコラムがどれも秀逸で、私は何度読んでも快哉を叫びたくなります。いささか専門的な記述もありますが、平易な言葉で明快に書かれているので、ヨーロッパ史に詳しくなくても内容がつかめます。これを読まないという手はありません。
たとえば、ウォーラーステインに関する記述。ウォーラーステインはアメリカの社会学者・歴史家で、彼が提唱した「近代世界システム論」(世界を個別にとらえるのではなく、一体のものとしてみる)は、西洋史のみならず、さまざまな分野に大きな影響を与えました。
しかし、各分野の専門家からその細部に物言いがつき、「ブローデルはえらいけれども、ウォーラーステインは粗雑だ」「ウォーラーステインはアジアのことを知らない」といった批判がよくありました。これに対して、川北先生は次のように異議を申し立てます。
ウォーラーステインは、アジアを知らないなどとうそぶく東洋史研究者が、「西洋史」をウォーラーステインがアジアを扱ったほどにも扱えたためしを、私は知りません。古典的な「東洋史」研究から出てきた理論やテーゼが、ヨーロッパの歴史研究に大きな影響を与えた例も、ほとんど見つけられません。「世界史を書く」ということは、大変な努力を要します。「ないものねだり」的な狭い視野に閉じこもっていては、アジアから歴史を見るということも難しいでしょう。
20世紀最高の歴史家ともいわれるブローデルの評価も独特で、川北先生の慧眼が窺えますが、紙幅をとるので割愛します。
本書のなかでは、いまの西洋史研究への懸念が何度も吐露されます。西洋史研究は時代が進むにつれて細分化され、精緻になってきました。いまや大学院生が在外研究をすることは珍しくなく、各国の文書館に出入りして一次資料をベースにした研究が当たり前になっています。
こうして研究の質が上がることは素晴らしいことですが、一方で歴史好きの一般の人たち、非専門家にとっては親しみにくいものとなっているきらいもあります。西洋史研究者でも、専門を異にすると正当な評価ができず、著者と一部の人たちにしかその内容を理解できないような状況も生じています。
だから、川北先生は言います。「誰かが非常に面白いヨーロッパを書かなければならない」。そうしないと「日本の西洋史研究者は、国際的にも、あるいは国内的にも生き延びていけないのではないか」。
対談でこのくだりを聞いた時、私は衝撃を覚えました。そして自問自答しました。専門家でないけれど、歴史に関心のある、知的好奇心が旺盛な人たちの期待に応えられているのだろうか。編集者として本当にそういう本を作ろうとしているだろうか。自分の専門分野に関係なく、さまざまな歴史の本を楽しんでいた頃を思い出しました。
その後、「創元世界史ライブラリー」という新しい叢書を作りました(現在までに7点刊行)。各巻の最終ページに入るシリーズ広告には次のように書いています。
「世界を知る、日本を知る、人間を知る――ベーシックな研究テーマからこれまで取り上げられなかったテーマまで、専門研究の枠組みや研究手法、ジャンルの垣根を越えて、歴史学の最前線、面白さを平易な言葉とビジュアルで伝える」
川北先生がこのようにおっしゃったわけではありませんが、『私と西洋史研究』を編集していなければ、このシリーズは生まれなかったかもしれません。そういう意味でも思い出深い一冊であり、これから西洋史を勉強しようという方にぜひとも読んでいただきたい一冊です。