在野研究を続けていくためのスキル 『吉本隆明全集 第21巻』より
記事:晶文社
記事:晶文社
硬い本、教養的な雑誌は、文学にしろ、文学以外の、思想その他全般にわたる雑誌にしろ、ますます経営が困難になってゆく。それはなぜでしょうか。つまり、何が悪いのか、読者の教養の程度が悪くなったからというふうに読者のせいにしたらいいのか、それともそうではなくて、出版社のせいにしたらいいのか、それとも筆者のせい、つまり書くひとのせいにしたらいいのかということは、とても大きな問題です。これは雑誌経営の問題であると同時に、文化の問題であります。またもしかすると、社会体制の問題なのかもしれません。
ところで、ぼくらのやっている『試行』という雑誌は一九六一年九月に創刊号が出ています。硬い雑誌の御多分に漏れず、いつやめようかという岐路に立たされているというのが、ここ一、二年の現状です。読者は減る一方ですし、それに対してどうしたらいいか、ということを本当に考えなくてはいけない段階になってきました。
読者が減ったということは、内容が悪いか、書き方が悪いか、読者が悪いか、どれかだと思います。極端にいうと、この三つに帰着するわけです。読者が悪いといってしまえば、簡単なわけです。そういうことをいっているひともいるでしょう。「このごろの若い者は、思想がなくなった」とか「むつかしいことを考えようとしなくなった」とかいうひとはたくさんいます。それは読者が悪いといっているのと同じです。ぼくの考えではそれは間違いです。もちろん当っている部分もあるのかも知れませんが。
間違いこそが本質的なのだ、と思います。文化や教養の質が変わってきて、一見むつかしい本を読まなくてもその代わりに、読書以外の、映画や音楽などさまざまな文化のジャンル、その分野では感覚を磨いているわけです。だから、若い読者がむつかしいものはご免だといったとしても、彼らを馬鹿だと思ったら大間違いです。彼らは他の分野に関して、われわれが持っていなかったものを持っています。
要するに読書については、むつかしい本を読まなくなったかも知れないけど、その分どこかで感覚や頭脳の磨き方を知っている筈なんです。だから、思想なんてお断りだと思っているというだけで、一概に馬鹿にしたり侮ってはいけないのであって、普通、反体制といわれている文学者とか、それらしき進歩的なことをいう人たちは「近ごろの若者には思想がなくなった、むつかしい本を読まなくなった、駄目になった」とかいいますが、それは大間違いです。まず「俺は悪くないのか」という反省がなかったら、駄目なわけですよ。だから「俺が悪い」とか、「『試行』が悪い」という部分もあるんだと思います。
簡単にいえば、程度を落とさない内容を、極めて判り易く表現できるかどうかという課題に対して、『試行』は少しも応えようとしていない、ということがあると思います。判り易いように表現するとは、判り易い言葉で、という意味では決してないのです。易しい言葉を使えば判り易く表現したことになるかというと、そうではないのです。
つまり、むつかしい本は読まなくなったが、絵画や音楽、映画や映像という部分ではものすごく鋭敏な、幅広い感覚を持っている人たちに訴えられるような文章で、なおかつ内容の高度な文章を書けるかどうかという課題が、必ずある筈なんです。つまり、言葉を易しくすればいいというのは単なる啓蒙主義にすぎません。もっと悪くいえば、大衆を馬鹿にしていることにもなります。
ぼくがいっているのは、むつかしい本は読まなくなったかもしれないけど、他の分野では、ものすごい、かつてなかったような鋭敏な感覚、鋭敏な鑑賞力を持っている人たちに応えられるような文章で、高度な内容を書けるかどうかという課題がこっちにもある筈じゃないか、と反省する必要があるんじゃないかということです。『試行』は、それに応えられていないんです。
これに応えられないかぎり、読者層がふえてゆくということはありえない、というのがぼくらの理解です。しかし、それはとても困難な課題なんです。困難だけれど、現在取り組むに値する課題、文化全般の問題として考えるに値する課題だと思います。
(『吉本隆明全集 第21巻』所収、「『試行』の立場」より抜粋)