「子どもの目」を通して現実の多層性にふれる 河合隼雄『河合隼雄と子どもの目』
記事:創元社
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アニメや漫画が広く普及した現在、子どもたちが「児童文学」にふれる機会はどんどん減りつつあるものと思われます。そして大人である私たちも、たとえ読書好きの人であれ、子ども時代を終えると児童文学を読む機会はほとんどなくなってしまうことでしょう。
「児童文学」なのだから、大人になれば読まなくなるのは当たり前。だってそれは子どもに向けて書かれたものなのだから。そう考えるのはごく自然なことのように思えます。しかし本書の中で、河合隼雄は次のように述べています。
児童文学を子どものための読み物と思っている人がある。その上、児童のための読み物だから、大人のための読み物よりは低級であろう、などと決めてかかっている人もある。児童文学の作家で、自分は大人のための文学は難しくて書けないので、子どものほうにしておこうなどと考えている人は、まずいないことと思われる。筆者は、児童文学を子どものための読み物とは考えていない。端的に言えば、「子どもの目」を通して見た世界が表現されている文学であると思っている。〈中略〉ともかく、このように児童文学を考えると、それは子どもも大人も共に読む価値のあるものでなければならない。C・S・ルイスは、「私は、子どもにしか喜ばれない児童文学は、児童文学としてもよくないものだということを、ひとつの規範としてあげたいくらいです(※)」と明言している。〈中略〉筆者は、このような姿勢で、児童文学を自分の生き方に深くかかわるものとして読んでいるのである。(本書4-5ページ)
※C・S・ルイス、清水真砂子訳「子どもの本の書き方三つ」『オンリー・コネクト』(岩波書店、一九七九、所収)
ここで述べられている「子どもの目」とは、いったいどういうものなのでしょうか。また、「子どもの目」を通して見える世界とは、どのような世界なのでしょう。ここで河合は、ペーター・ヘルトリング作の『ヒルベルという子がいた』(上田真而子訳、偕成社)を取り上げながら、その疑問に答えています。
ヒルベルは九歳の男の子で、浮浪児や、親のてにおえなくなった子を一時的に収容する「ホーム」にいる。〈中略〉ヒルベルの行為は理解されることが少なく、「悪い子」と思われがちなのである。(本書5ページ)
ヒルベルは皆と遠足に行ったとき、逃げ出して行方不明になった。翌日、ヒルベルは羊飼のおじいさんに抱かれてホームに帰ってきた。彼は羊の群の中にはいり、一緒に眠りさえしたのだ。ところで、この経験は彼にとって忘れ難い楽しいことであった。いったい、ヒルベルはどんな経験をしたのか、彼自身の言葉によって述べてみよう。彼はグループから離れ、丘をどんどん走っていった。「そしたら、アフリカみたいなんだ。アフリカだったんだ。ライオンのいる、砂漠なんだ。〈中略〉ぼくたち、なかよしになったんだ。いいライオンばっかりだった。ぼく、ライオンといっしょに、ねたんだよ」(本書7-8ページ)
このように、羊をライオンだと勘違いしたヒルベルを、周囲は馬鹿にします。いまこの文章を読んだあなた自身も、ヒルベルの勘違いを「子どもらしい、無知ゆえの無邪気さ」と結びつけたかもしれません。
しかし河合は、「最近は世の中が便利になって、アフリカ旅行をする人も多くなった。しかしそのなかの何人の人がヒルベルの『アフリカ体験』に匹敵する経験をすることができたであろうか。〈中略〉何かの名前を知ることと、何かを知ることは同一ではない」(本書8ページ)と述べ、羊をライオンだと感じたヒルベルは、「大人たちが知っていると思っている『羊』について、大人たちの知識をはるかに超えた羊の現実に触れたのである」(本書13ページ)と言います。
つまり、われわれ大人は、羊を羊としてしか認識できないような「単層的な現実」を唯一のものとして信じていますが、そういった常識によって曇らされていない、ヒルベルのような透徹した「子どもの目」は、「現実の多層性」を見抜く力をもっているのだと。「そこに児童文学の存在意義がある」(本書13ページ)のだと、河合は主張するのです。
本書には、『モモ』や『ゲド戦記』、『ぼくと〈ジョージ〉』といった西洋の物語から、『銀河鉄道の夜』や『さらば、おやじどの』といった日本の物語まで、古今東西の児童文学が登場します。河合はそれらの物語を取りあげながら、「子どもの目」を通して見えてくる「多層的な現実」について、さまざまな角度から考察していきます。
「多層的な現実」とは、「内的現実」や「内的世界」とも言い換えられます。そして河合は、児童文学にファンタジーが多いのは「自分の内界との関連におけるアイデンティティの深化には、ファンタジーを必要とする」(本書231ページ)からだとし、ファンタジーの機能について以下のように説明しています。
人間がその本来性を回復するためには、ファンタジーをもつことが必要である。それは外的世界を裏打ちするものとしての内的世界について、思いをめぐらせること、と言うよりは、われわれが外的世界に生きているのと同様に、内的世界においても生きる、ということである。人間がファンタジーをもつ、というのは、そもそも思い上がった言い方で、ファンタジーが人間の中に生きてくる、と言うべきであろう。このような裏打ちを得てこそ、われわれの人生は豊かなものとなり、生命力をもったものとなる。しかし、われわれがファンタジーと切り離されたとき、われわれは機械と類似の存在となる。これが現代人の危機なのである。(本書122ページ)
ともすれば、われわれ大人は子どもが好むファンタジーの物語を、現実逃避的なものとして軽視してしまいがちです。しかし、外的現実ばかりを重視して、ファンタジーが表現するような内的世界から離れてしまうことは、人間性を損なうことにつながるのだと河合は警鐘を鳴らします。
本書のあとがきの中で、河合は自身の児童文学に対する関心を心理療法家としての「たましい」への関心に結びつけて言及し、「大人の常識によって曇らされていない『子どもの目』には、それがはっきりと見える」(本書236ページ)と断言します。以下、そのあとがきの抜粋をもって締めくくりとしたいと思います。
「たましい」と言っても、それは目にも見えないし手で触れることもできない。そのような存在について語るのには、ファンタジーという形が最も適している。あるいは、ファンタジーをつくり出すことこそ、たましいの重要なはたらきであると言うことができる。したがって、本書に取りあげる作品にファンタジーが多いのも、むしろ当然のことと言えるだろう。
本文にも論じているように、児童文学を「子どものための文学」などと筆者は思っていない。大人にとっても子どもにとっても大切なものである。特に大人にとっては日頃つい忘れそうになる「たましいの現実」に触れさせてくれるものとして、その価値はきわめて高いと言わねばならない。〈中略〉本書が大人の読者に対する児童文学への橋渡しとして役立つと、まことに嬉しいと思っている。(本書237ページ)