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『しょぼい生活革命』 互いに分かり合えない人間が共に生きていく知恵

『しょぼい生活革命』(晶文社)
『しょぼい生活革命』(晶文社)

深刻化する世代間の対立

 洋の東西を問わず、昔から大人と子供は分かり合えないものです。老人と若者と言って構いません。いや、若者と老人に限らず人間は分かり合えないものです。人類学には通過儀礼という概念があります。どの民族にも、メンバーの出生、成人、結婚、死などに意味を与えそれぞれに役割を割り振る慣習があります。それが通過儀礼で、互いに分かり合えない人間がそれでも共に生きていくための知恵でした。

 グローバリゼーションが進行しインターネットが世界中の人々をつなぎ、人間は自由、平等になり、そうした儀礼は時代遅れな悪習としてすたれていきました。ところが人々が平等になり、自由につながることができるようになったにもかかわらず、逆説的に世界はますますセグメント化されていくようにみえます。

 東アジア、欧米、中東、国境で分断された世界中で排外主義が広がっています。アメリカでは「リベラルな知識人」たちによるメディアの批判の集中砲火を浴びても、「フェイクニュース」しか読まないトランプのコアな支持層は一向に動ずる様子はありません。日本でも状況はおなじようなものです。

 問題は対立そのものではありません。冷戦期の東西、左右の対立はある意味で現在よりも先鋭で危険なものでした。現代の分断化の問題は、両者の間に対話が成立しない、いや対話への意志すら存在しないことです。冷戦期の対立は、「敵」との会話を拒否するのではなく、「敵」の議論を止揚し、説得し、「改宗させる」ことを目指すものでした。今から振り返ってみると、あまり成功したとはいえなかったような気がしますが、少なくとも理念的にはそうでしたし、冷戦のイデオロギー闘争は世界大戦を招くことなく、ともかくも平和裏に西側の勝利に終わりました。しかし現在の対立にはそのような対立の止揚の契機が欠けているように見えます。そしてこうした分断の中でも最も深刻なのが世代間の対立、セグメント化です。なぜならそれは過去と未来の断絶に他ならないからです。

私たちは後継者を育ててこなかった

 農家の後継者不足は既に私が小学生だった頃から言われていましたが、現在では私の生活圏でも数十年続いた食堂や個人商店が後継者の不在によって次々と店をたたんでいます。いや、中小企業だけではありません。大学ですらそうです。私が身をおいていた山口大学でも、同志社大学でも常勤のポストはどんどん削られています。問題は制度面でのポストの減少ではありません。それは結果であって原因ではないからです。私は早くに大学を去りましたが、気が付くといつの間にか私の同輩たちも指折り定年の日を待つ年齢になっています。そして周りを見回して思い知らされるのは、私たちは後継者を育ててこなかった、ということです。

 後継者を育てる、というのは、博士号をたくさん出すことでもなければ、学派を作って自分の学問的業績を護らせることではありません。引き継ぐべきものはそのような形あるモノではありません。内田先生はそれを「仰角」と呼んでいます。

 師弟関係で継承されるものは実定的なものではなく、師を仰ぎ見るときの首の「仰角」である。これは師弟のあいだにどれほどの知識や情報量の差異があろうとも、変わることがない。

 師弟関係における「外部への回路」は、「師の師への欲望」を「パスする」ことによって担保される。(…中略…)

 師弟関係において「欲望のパス」をしない人間――つまり弟子の欲望を「私自身へのエロス的欲望」だと勘違いする人間――は、ラグビーにおいてボールにしがみついて、試合が終わってもまだボールを離さないでいるプレイヤーのような存在である。彼は自分の仕事が「ボールを所有すること」ではなく、「ボールをパスすること」であり、「ボールそのもの」には何の価値もないということを知らない。

 「師の師への欲望」として「顔の彼方」へとパスされてゆくはずの欲望が、二者間で循環することの息苦しさに気づかない師弟たちだけが、出口のない官能的なエロス的な関係のなかで息を詰まらせて行くのである。

 真の師弟関係には必ず外部へ吹き抜ける「風の通り道」が確保されている。あらゆる欲望はその「通り道」を吹き抜けて、外へ、他者へ、未知なるものへ、終わりなく、滔々と流れて行く。
 
 師弟関係とはなによりこの「風の通り道」を穿つことである。

 この「欲望の流れ」を方向づけるのが師の仕事である。

 師はまず先に「贈り物」をする。

 その贈り物とは「師の師への欲望」である。

 その場合の師とは、さきほども書いたように、必ずしも人格的な師である必要はない。「私が知るべきことを知っていると想定される他者」は――遠い時代の異国の賢者であれ定義上「師」の機能を果たしうる。

 そして、師から「欲望の贈り物」を受け取った弟子は、それを師に返すのではなく、自分の弟子に贈る。

 その永遠の「パス」によって師弟関係の「非相称性」は確保される。

(「内田樹の研究室」2002年2月13日)

 大学院に残った者たちに対しても、そして大学を去って企業や政府に入った者たちに対しても、自分たちが仰ぎ見る真智への仰角を伝えてこなかった。大学の予算が削られ、ポストが減っていくのはその結果でしかありません。

すぐれた「パッサー」は、いつも送り先のことを考えている

 私にとって身近な大学を引き合いに出しましたが、憧憬の仰角による継承の問題は、アカデミアだけの問題ではありません。内田先生も武道を例にあげていますが、継承が憧憬の仰角のパスによってなされる、という原理はあらゆる職業、役割に共通すると思います。

 本書は、ある意味で、私個人の「師の師への欲望」から生まれたものです。内田先生がレヴィナスのテキスト「存在するとは別の仕方で」から自らの生身を介在させて引き剝がした代替不能な解釈に導かれ、存在するとは別の仕方で共にいる他者のために生きる道を私は選ぶことにしました。そしてそれは、私の欲望と仰角を誰かにパスしていくことでもあります。

 そしてパスの相手は、私を今もこの世界に繫ぎとめてくれている若い友人矢内さんしか考えられませんでした。晶文社からこの対談の進行役を仰せつかったのは嬉しい驚きでしたが、必然でもありました。内田先生が言われるようにパッサーであるためには、パスを受けそれを次につなぐすぐれたパッサーとのネットワークの中にいなければいけないからです。

 贈与者はいつも「送り先」について考えているからである。

 というか、いつも「送り先」について考えているもののことを贈与者と呼ぶのである。(…中略…)

 すぐれた「パッサー」であるためには、パスを受け、さらに次のプレイヤーに贈る用意のあるすぐれた「パッサー」たちとの緊密なネットワークのうちに「すでに」あることが必要である。

(「内田樹の研究室」2009年12月14日)

 世界の分断と自閉の時代に、「風の通り道」を穿つのは、希代のパッサーである内田先生と矢内さんをおいていない、と私は信じています。本書が先賢たちからの贈り物を未来に送り届け、世界のこの閉塞状況に新風を吹き込むものとなることを願って已みません。

(『しょぼい生活革命』、中田考さんの「あとがき」より抜粋)

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