1. じんぶん堂TOP
  2. 哲学・思想
  3. 『書物のある風景』 世界の美術作品から本と人との歴史を辿る

『書物のある風景』 世界の美術作品から本と人との歴史を辿る

記事:創元社

『書物のある風景』(創元社)
『書物のある風景』(創元社)

「不思議の国のアリス」ジョージ・ダンロップ・レスリー、1879年頃(ブライトン・アンド・ホヴ美術館)
「不思議の国のアリス」ジョージ・ダンロップ・レスリー、1879年頃(ブライトン・アンド・ホヴ美術館)

読む人の姿は、永遠。

 本書はどこにでもある身近なもの、しかしときに社会や思想に大きな変革をもたらす「本」への礼讃である。世界各地の美術館やコレクションから古今東西の作品を300点ほど選び、なかには現在のような本がまだなかった時代に、巻物や写本を読む姿が描かれたものもある。過去の絵画や彫刻をながめていると、人びとの暮らし(衣服や調度など)の移り変わりがよくわかる一方で、歳月が流れてもなお変わらないものがあることに気づかされるだろう。そこに書物が、読んでいる人びとが描かれていると、時も文化も超えた、人間としてのつながりがもてたように思える。

 本書では、さまざまな時代、さまざまな文化の作品から、書物のある風景だけを選んで紹介する。家庭や学校で読書をする子たち、いろんな姿でいろんな場所で読みふける大人たち、しかめ面で読む者、のんびりくつろいで読む者、本を手にどこか遠くをながめる者――。若者が、老人が、読みながらうつらうつらしていたりする。何百年も前に描かれた姿であれ、現在のわたしたちとまったく変わらない。

移り変わる時代、書物の存在意義とは。

 古い時代の肖像画や静物画に描かれた書物は、その人物もしくは制作依頼者の知性や富、敬虔さの象徴といってよいだろう。書籍は貴重なものであり、それ自体が丹念につくられた芸術品だった。その後、印刷機が普及して大量生産されるようになり、今では手軽に買えて気軽に捨てることさえできる。

 情報通信技術の進歩により、印刷物はいずれ消えてなくなるともいわれたが、紙の書籍は生き抜いてきた。21世紀的視点から見れば、印刷書籍はアナログで古臭いかもしれない。だがデジタルの書籍にはない、読者との触れあいがあるのではないか。形と重みを感じながら表紙を開き、気が向けば線を引いたりメモ書きしたり――。ネットワーク化された情報社会、見方によっては何もかもがあけすけな時代にあって、紙の本を読むのは“オフライン”で、自分ひとりの世界にこもれる。

(中略)

 書物は人間の歴史に大きな影響を与えてきた。その位置づけが時代とともに変化したことは、西洋美術を見ればよくわかる。中世の絵画では、一部の者しか手にできない高貴なものとして描かれ、現代ではどこにでもある大量生産品の面が強調されるようなった。たとえば、キリスト教の聖人の肖像画にある書物はその人物の知性を示し、見る者に死の必然性や怠惰への警告を伝えたりする。いずれにしても、絵画、彫刻、インスタレーションを問わず、時代の文化が書物とそれを読む人をどのように見ていたかがわかるだろう。

「旅の道づれ」オーガスタス・レオポルド・エッグ、1862年(バーミンガム美術館)
「旅の道づれ」オーガスタス・レオポルド・エッグ、1862年(バーミンガム美術館)

読書はいけないもの? 女性読者と本。

 17世紀に入ると、読書は非宗教的、世俗的行為として表現されるようになった。たとえば、ピーテル・ヤンセンス・エリンハ(1623~82年)が描いた若いオランダ人女性(P.156)は、鎧戸が半ば閉まった部屋でこちらに背を向け、本を読んでいる。ひとりきりでの読書に慣れているのは、画面の手前に靴を脱ぎ捨てていることから想像がつく。またこの靴には、エロティックな含みもあるかもしれない。信仰心や学びではなく、楽しむための読書は芽吹いたばかりだったが、ここから近代小説誕生の道筋ができ、それに伴い読書に夢中な女性が次つぎ描かれた。

 18、19世紀になると、女性は本を通じて自我や独立心を経験するようになった。女性読者を対象とした小説が多く、父権主義的な社会の制約を超えた個人的世界を提供したからである。とはいえ、保守的な人びとは、女性を夢物語に誘う安価で無益な書籍が増えることに警鐘を鳴らした。今や読書は享楽的なものになり、社会のモラルを脅かしかねないということで、小説を批判する声が高まっていく。

 19世紀後半の絵画のなかには、そのような批判的風潮を反映したものもあり、ヨハネ・マティルデ・ディートリクソン(1837~1921年)は、若い中働きの女性が仕事の最中に小説を読む姿を描いた(P.166)。また、フェデリコ・ファルッフィーニ(1833~69年)の作品では(P.161)、女性がだらしなく椅子にもたれて本を読み、手には火のついた煙草。テーブルにはカラフがあるから、ワインも飲んでいるのだろう。乱暴に置かれた書籍は、どこかヴァニタスを思い起こさせる。

本の大量生産、情報の氾濫。

 20世紀を迎えるころ、書籍は大衆向けの大量生産品になっていた。もはや貴重で尊いものではなく、庶民でも手に入れることができ、読みおわれば捨ててもかまわない。芸術分野では、読み捨てられた本が彫刻や絵画、インスタレーションの素材になった。

英国の彫刻家リチャード・ウェントワース(1947年~)は1995年、ロンドンのリッソン・ギャラリーで大量の古書を天井から吊るし、通常とは違う視点からながめることで、書籍のもつ可能性を広げる空間をつくった(P.303)。その後はリメイクしたものを、ロンドンのレドンホール・マーケットやインディアナポリス美術館などで展示している。一般からの寄付があってこそ、これだけ大量の本を集められるのだが、それはとりもなおさず書籍が消耗品であることを示している。

 一方、スペインのアリシア・マーティン(1964年~)は、本を壁から急流のごとく噴き出させるインスタレーションを制作した(P.225)。また、何千冊もの書籍を、実際のビルの2階窓から外の道路に流れ落ちる滝のように見せたりもしている。これは過剰な図書生産を示唆するもので、ウェントワースが書籍の多様性を称えたのに対し、マーティンは情報の氾濫への不安を表わした。

書物は人間の魂と同じく、生き残る。

 1933年の春、ナチスの思想に合わない書物が大量に燃やされた。現在、ベルリンのベーベル広場には、ナチスによる焚書を忘れないための“図書館”がある(P.293)。イスラエルのアーティスト、ミハ・ウルマン(1939年~)制作の、書籍が一冊もない地下の図書館で、銘板にはハインリヒ・ハイネの戯曲<アルマンゾル>(1823年)の有名な一節が刻まれている――「それは序曲にすぎない。本を焼く者は、いずれ人間も焼くようになる」。ヒトラー政権より百年以上前の戯曲だというのに、この言葉とウルマンのからっぽの図書館が結びつくと、焚書のあとにいかに多くの命が奪われたか、書物の破壊は人の破壊につながるのだと思わざるをえない。

 多くの人の目に、焚書は野蛮な行為と映るだろう。つまるところ、書物は文明社会の文化、価値観、信念の象徴であり、書物の破壊は文化の一部の破壊といってよい。検閲と焚書の歴史から学べることがあるとすれば、いくら破壊し、消し去ろうとしても、書物は―人間の魂と同じく――生き残るということだ。デジタル技術は発展の一途をたどるが、紙の本は消えてなくならない。本がつくられているかぎり、アーティストたちはその社会的位置づけを模索し、作品で表現しつづけるだろう。そこにはわたしたち自身を映し出す鏡としての本がある。

(以上、本書「はじめに」より)

 本書では、全ての作品に解説がついているわけではありません。しかしそれこそ美術鑑賞の醍醐味とも言えるでしょう。物言わぬ作品を見つめ、そこに描かれた(または写し出された)人物や背景、本、またその表情や色彩から、私たちは想像力を働かせて新たな解釈を付け加えることも可能なのです。知識は後からでもつけられます。まずは感性に従って、作品と対峙してみては。本の歴史という過ぎ去ったものを見つめるにもかかわらず、きっと新たな発見が満ちあふれていることと思います。あなたの想像力をきっかけに、知的好奇心を揺さぶる一冊となることを願って。

ページトップに戻る

じんぶん堂は、「人文書」の魅力を伝える
出版社と朝日新聞社の共同プロジェクトです。
「じんぶん堂」とは 加盟社一覧へ