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成熟の時代に暮らすべき空間とは? 100年前の華麗なるアール・ヌーヴォー建築が問いかけるもの

記事:大和書房

『一度は行きたい幻想建築~世紀末のきらめく装飾世界~』(大和書房)
『一度は行きたい幻想建築~世紀末のきらめく装飾世界~』(大和書房)

華麗なるアール・ヌーヴォーの哀愁

 アール・ヌーヴォーは19世紀末に現れ、20世紀初頭の第一次世界大戦とともに歴史の表舞台から消えていきました。わずか20数年という短い間でしたが、クリムト、ミュシャらを含めた多くの芸術家や職人が腕をふるい、それらの芸術を統合する総合的な「街路の芸術」として世紀末建築があったのです。

 評論家の海野弘は、ミュシャの描く愛らしく美しい女性たちの微笑みの中に「秘められた哀愁」を見出し、その儚い美しさが絵の魅力の本質だと捉えています。海野は、未来への明るい希望に満ちていたアール・ヌーヴォー絶頂期1900年のパリ万博に触れ、この哀愁の理由を次のように述べます。

 このおとぎの国(=世紀末アール・ヌーヴォー)が束の間の、はかない幻影であり、博覧会がもうすぐ閉会になるように、やがて消えることを、まもなく、別れを告げなければならないことを、彼女たちが予感しているからなのだ。(『アルフォンス・ミュシャの世界』海野弘監修、PIE)

 世紀末建築は2つの世紀のはざまに現れた束の間の「美しい祝祭」であり、その魅力は熱に浮かされたような圧倒的な装飾や造形、そしてその刹那的な美しさにあると言ってもいいかもしれません。しかし、一体なぜ生命力に溢れた動植物や人間、曲線のモチーフを特徴としたアール・ヌーヴォーは、その始まりの時からすでに終わりの予兆を漂わせていたのでしょうか。

近代合理主義への反抗

 19世紀は第二次産業革命期にあたり、急速な機械化と分業化が進んだ時代です。カール・マルクスが言うところの「自身が何を作り、どのように売られ、社会にどのような意味を持つか」すら分からない、現代につながる労働システムが生まれていたのです。

 ジョン・ラスキンは、こうした社会を「分業が分割するのは労働ではなく人間である」と批判し、人々が創造力を発揮して喜びと共に働き、結果として生まれる美しい芸術が暮らしにもたらされることを目指しました。

 この運動は、粗悪な機械製品ではなく、職人たちの伝統的な手仕事による物づくりを復興しようとしたウィリアム・モリスへ受け継がれ、アール・ヌーヴォーの運動が始まりました。しかし、普通の人々の暮らしに良いものを、芸術をもたらそうとしたこの運動は、逃れられない製品の高価格化によって次第に新興富裕層のものとなり、また大量生産の時代において肥大化し続ける装飾芸術は時代錯誤とみなされる運命にありました。

 その後、経済効率、合理性をひたすら追求するモダニズムが主流となり、1930年代に全盛を迎えます。時期同じくして権力を握ったナチスは、合理的思考のもとに障がい者を排除し、民族浄化を意図しました。また、アール・ヌーヴォーを世紀末の頽廃芸術と嫌い、クリムトらの作品を焼き払い、あるいは破壊し、芸術家を弾圧したのです。そしてそれ以降も長らく趨勢が変わることはなく、19世紀末は見るべき建物のない失われた時代であると謗られることとなったのです。

無機質な住居を喜びの舞う空間へ

 近代建築の巨匠ル・コルビュジエは、「住宅は住む機械である」と言いました。現代日本に乱立する集合住宅は、どれも似た形状の外観をしており、かつ機能性の高い部屋を持つ極めて合理的な、まさに「住む機械」であると言えます。モリス・バーマンはこの西欧的な工業社会における生のあり方について次のように述べます。

 「奥深く」に引きこもった自己が、生命を失って(生の魔術を解かれて)機械のように動く身体としての自分が演じる他者との関わりを、まるで科学的観察者のように冷ややかに見ている。そんなにせものの自己が捉えた世界がリアルであろうはずはなく、行為から意味が抜け落ちることも必然である。仕事のなかでも、「恋」と呼ぶものにあるときさえも、空想の世界に引きこもり、偽りの自己を始動させては、日常生活を構成する儀式の連続をこなしていく。(『デカルトからベイトソンへ 世界の再魔術化』モリス・バーマン、柴田元幸訳、文藝春秋)

 暮らしの場を機械とみなす思想は、そこに住む人間をも社会システムの代替可能な歯車の一つとみなしています。そして私たちは、意味があるとは思えない仕事に携わり、表層的な人間関係を構築し、無気力な毎日を送る「機械」と化すのです。

 本書に解説を寄せた建築家の梵寿綱は、このような近代的なあり方に疑問を抱き、住まいに合理性を求めることは無意味だと考えました。そして、労働に喜びを取り戻し、暮らしに芸術をもたらそうとしたアール・ヌーヴォーのように、「住まいは喜びが舞う空間でなければならない」と考え、現代に生命の輝き溢れる建築を創生しようと活動したのです。

ドラード和世陀、設計・梵寿綱
ドラード和世陀、設計・梵寿綱

道端の芸術が生む連帯

 本書の内容紹介の1文目には、夭逝したドイツ表現主義の先駆的画家パウラ・モーダーゾーン=ベッカーが19世紀最後の年、1900年の日記に書き綴った「祝祭は長ければそれだけ美しいものだろうか」という言葉を引用しました。自身の死が近いことを感じながらも、自分の人生は「儚くも満ち足りた祝祭」なのだと書いた彼女の言葉は、アール・ヌーヴォーの本質を捉えています。

 しかし、工業化と効率化の波の向こうに消え去ったかに見えた世紀末建築の実に多くが、今なお世界各地にきらめく星のようにちらばりながら現存していると、著者である小谷匡宏の35年にわたる綿密な調査によって明らかになったのです。

 また、今回の書籍制作においては、あらためて建物の所在を確認する上で、SNS等に無数にアップされている国内外の世紀末建築の情報や写真に助けられました。道端のちょっと素敵な建物を見つけた時の喜びをシェアする世界中の人たちによって、この本は出来上がりました。

 梵は「SNSは分断を生む一方で、人間の深いところでの共感によって人びとを結びつける」と語ります。歴史に逆行して世界に魔法をかけようとした時代の残り香である世紀末建築。近代化が生んだ無気力なアパシーの時代を乗り越え、再び「驚きと魅惑に満ちた世界」へと向かう萌芽が、本書のページからは感じられるのです。

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