「本当の貧困探し」のわな シリーズ「子どもの貧困(全5巻)」から貧困研究の立場を考える
記事:明石書店
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ところで、貧困について話をすると、しばしば「それは本当の貧困なのか」という素朴な質問をぶつけられる。含意されていることは、いまの日本の貧困(例えば、学者が騒いでるやつ)は大した問題ではなくて、「もっと深刻な貧困(例えば、飢餓に近いイメージ)」が「本当の貧困」だという感覚である。また、貧困問題に取り組みたいと思う人が、個別の事象を前にして、これは貧困かどうかと思い悩むこともある。これもまた、貧困を考えるときに「本当の貧困」を基準にしたい、という感覚である。こうした感覚は、「本当の貧困探し」を招く。
もちろん、「本当のものかどうか」を問うことは大切である。権力の座にある人が発信する情報の真偽を問わなければ、民主主義が危うくなる。これは歴史を振り返っても今の社会を見ても、身に染みる現実である。きれいに加工されたデータを使う論文を読んで、味付けと盛り付けの巧妙さに感心する。しかし食材たる加工前の生データが「ほんもの」であるかどうかを考察する力がなければ、学問は衰退する。そう考えれば「本当の貧困」に思いを巡らせることも、一概に否定すべきではないのかも知れない。ただし「本当の貧困探し」に仕掛けられた「わな」を知っていれば、である。「本当の貧困探し」には、大きく三つのわながある。
序章で述べたように、貧困は「必要」を充足する資源の不足・欠如である。不足している資源の種類や不足の程度、時間的長さ、先の見通し、他の不利との複合、こうしたことによって、貧困の深刻さには一定の幅がある。あわせて、貧困にならないように「頑張っている」ことがもたらす負の影響も、貧困問題として理解すべきである。例えば、ダブルワークで「貧困線」を超える世帯収入を確保しているひとり親世帯の親が過労で健康を壊す、子どもと過ごす時間を奪われるといったことは、貧困の現れ方ではないか。またそもそも、貧困による制約やあきらめ、恥辱といった感覚は、本人にしかわからない。「本当の貧困探し」は単一の貧困イメージを想定しがちなので、こうした貧困の幅や多様な現れ方、主観的な意味が見えなくなる。つまり、貧困の現実的な姿を見逃す。
「本当の貧困」は、深刻な「状態」としてイメージされる。例えば複数の状態が比較され、より深刻だと感じられる方が「本当の貧困」と判断される。したがって、食事が期限切れの総菜か、二日間食べていないのか、それとも三日間なのか等々、比較するために状態像のあれこれを把握することに精力が注がれ、結果として貧困が生み出される社会的な過程への関心が後退する。また「状態」は変化していくものなので、実は深刻さの比較は難しい。この点も見落とされる。
「本当の貧困」と「貧困ではない状態」の間にどれだけ大きな違いがあるかという点に関心が集中し、問題の連続性が見失われる。意識的かどうかは別にして、貧困者と非貧困者の間に分断線が設定される。したがって、自分の問題にならない。貧困の渦中にある人を「自分たちと異なったひとたち」として他者化し、対象として扱ってしまう。非難の対象か、憐れみの対象か、どちらにしても貧困の渦中にある人の誇りを傷つけ、問題を深刻化させる。
こうしてみると「本当の貧困探し」自体が、貧困問題を小さくみせ、社会的なからくりに目をつぶらせ、問題を他人事にする装置かも知れない。貧困問題を深めているようで、実は貧困から目をそらさせる。これで得をするのは誰なのか。
ところでまた、貧困について話をするとしばしば、お金で幸せは買えないですよねとか、お金がないから不幸なんて決めつけは良くないですよねといった「抵抗」にあう。お金で買える安心と安全はあってそれが幸せの基礎だろとか、別に誰かを不幸と決めつけたわけではなく社会の不公正の話をしているのだけどなぁとか、結局自分の話がお粗末なんだろなとか、心の中でいろいろつぶやくことになる。幸福は主観的な概念として使用されることが多いから、客観的な状態としての貧困との関係は、なかなか整理が難しい。
ただはっきりしているのは、お金があれば防ぐことができた不幸はこの世にたくさんある、という事実である。それもわずかなお金である。わずかなお金がないことをきっかけとして起こる不利と困難の連鎖。奪われる希望。傷つけられる誇り。いさかい。閉塞感とあきらめ。場合によっては死。貧困を議論することは、こうした事実をいつも心の隅におき、こうした事実の放置は不正義だと考え、こうした事実を容認しない、まっとうな民主主義社会を構想することではないのか。貧困を「劣った個人」の問題として扱う言説があふれているこの社会で、誰もが人間らしく生きる権利の問題、損なわれている権利を放置しない社会をつくる問題だと、言い続ける必要がある。
本書の序章の冒頭に著作を引用した江口英一は、1979年の大著『現代の低所得層』の序章の終わりに、カール・マルクスが「資本論」において、ベネティアの僧オルティスの言葉として「人民の幸福にとって無用な体系を立てるよりも、私は人民の不幸の原因を研究するだけに限りたい」という一節を引用していることを、紹介している。私もこの言葉を心にとめておきたい。不利を負った人の現実をどうにかしたいと思うことから、社会のあり方を考える。貧困研究の立場とはそういうものだろう。
(シリーズ第1巻「あとがき」より抜粋)
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シリーズ「子どもの貧困」
第1巻「生まれ、育つ基盤-子どもの貧困と家族・社会」
第2巻「遊び・育ち・経験-子どもの世界を守る」
第3巻「教える・学ぶ-教育に何ができるか」
第4巻「大人になる・社会をつくる-若者の貧困と学校・労働・家族」
第5巻「支える・つながる-地域・自治体・国の役割と社会保障」