体罰を容認してしまう人の心理的メカニズム 『アスリートのメンタルは強いのか?』
記事:晶文社
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調査結果において明らかなように、「平手打ち」のような直接的に肉体的苦痛を与える行為(つまり体罰)が容認できないものであるとの認識が一般社会において共有されている点は大変望ましいことです。しかし、一部の人々のあいだでは、未だに「体罰は容認される行為である」と認識されていることが、これまでの研究において複数報告されています。
たとえば、高橋・久米田(2008)は、学生に対して体罰の是非について回答を求めた結果、男性では22・5%が、女性では12・3%が「体罰が必要である」と回答したことを報告しています。また、驚くべきことに、マスメディアを通じて連日報道された大阪府の桜宮高校での体罰事件(朝日新聞、2013a)の直後においても、実に6割の学生が「体罰は場合によっては必要である」との認識を示していることを明らかにしました(朝日新聞、2013b)。
さらにより後年、平田・小松(2017)が行った調査においても、体罰が「必要」と回答したものが3・0%であったものの、「場合によっては必要」と回答した者が41・7%にのぼったことを報告しています。調査された時期や調査方法によってその比率は変動しますが、いつの時代であっても体罰を容認する人たちが少なからず社会に存在することは確かなことと言えそうです。
それでは、なぜ運動部活動での体罰を容認してしまう人たちがいるのでしょうか。この点については過去に体罰を受けた経験が影響するという報告が大勢を占めています。
たとえば、楠本ほか(1998)は、学生を対象とした質問紙調査の結果、過去に体罰を受けたことのある学生たちの方が、体罰を受けたことのない学生たちよりも体罰を容認しやすい傾向にあったことを明らかにしています。つまり、過去に運動部活動で体罰を受けた人たちが、将来的に体罰を容認しやすくなるということです。
しかし、明らかにすべき点は、過去に体罰を受けた人たちがなぜ体罰を容認するようになるのかというメカニズムの部分です。この点については、スポーツ科学に関連する諸領域において様々な仮説が提唱されています。
たとえば、兄井ほか(2014)は、心理学者のフェスティンガーが提唱した認知的不協和の理論によってこのメカニズムを説明しています(Festinger, 1957 末永監訳、1965)。認知的不協和とは、相いれない2つの認知を同時に抱えている状態のことを指します。そして、人間はこの不協和を解消するために自らの態度や行動を変容させる傾向があるとされています。
有名なものに、喫煙者の例があります。喫煙者は自分自身が煙草を吸っていると認知しています。しかし、煙草を吸うと健康に害が及ぶことも同時に認知しています。ここでは煙草を吸っていることと健康に害が及ぶことは相いれません。そこで「たとえ煙草を吸ったとしても長生きの人がいる」などと主張することで不協和の状態を緩和するわけです。
このような不協和の解消が体罰を容認する人々にも生じていると考えます。つまり、自分自身が過去に部活動中に体罰を受けたという認知と、体罰には意味がないという認知は相いれません。そこで、体罰を容認するように態度を変容させることでこの不協和の状態を解消しようとするわけです。
もちろん、体罰を否定することも実際には可能ですが、それは過去の自分自身の体験を否定することになるため容易ではありません。スポーツ人類学者の庄形(2018)は、高校のハンドボール部員が体罰を受けていた当時は不快感や恐怖を覚えていたにも関わらず、引退後に「成長」という肯定的意味を付与することで体罰に対する態度を変容させていく過程について論じています。この態度変容の背景には認知的不協和が関係しているのかもしれません。
ほかにも興味深い説明があります。体育哲学者の坂本(2015)は、体罰・暴力を容認する背景として、競技スポーツにつきものである身体的負荷に着目した仮説を提示しています。
先にも似たようなことを述べましたが、スポーツ選手は日々のトレーニングにおいて、自らの身体に高強度の負荷をかけることで「より強く」なることを目指しています。しかし、負荷をかけることで強い身体が育まれる一方で、自己や他者の身体の痛みや苦しみに対する感受性が失われる方向で育まれている可能性を指摘しています。そして、強い「身体」の獲得過程で生じるこの感受性の低下が体罰・暴力容認の背景にあるのではないかと論じています。
つまり、過去に厳しいトレーニングを課される(あるいは、体罰に類する暴力的指導を受ける)ことで身体の痛みや苦しみに対する感受性が低下する結果、体罰や暴力を容認するようになるといった一連のメカニズムがこの仮説から想定されます。
このように、スポーツ科学に関連する諸領域において、過去に体罰(または厳しいトレーニング)を受けた人たちがなぜ体罰を容認するようになるのかといったメカニズムに関する仮説がいくつか提示されています。しかし、これらの説には特に確証的な証拠があるわけではありません。
そこで、私たち(注:内田遼介さんたち)はもっと単純に、「体罰を受けた人たちは過去の実体験から体罰が競技力向上の手段として効果的であることを学んでいるのではないか」と仮説を立てて実際に検証することにしました。
つまり、体罰を受けた人たちが、過去の実体験から体罰が競技力向上の手段として効果的であると考えるようになる背景には、当人が過去に運動パフォーマンスの改善や勝利などといった望ましい結果が得られた際に、その主たる原因を体罰に繰り返し求めてきたからではないかということです(これを心理学では原因帰属と言います)。
実際、全国大学体育連合(2014)の調査結果を参照すると、「体罰を受けたその後」について複数の選択肢を設けて学生に回答(複数回答可)を求めた結果、「精神的に強くなった」(58・4%)や「技術が向上した」(22・5%)、「試合に勝てるようになった」(10・7%)など望ましい結果に関する選択肢を選ぶ学生が一定の割合で存在することを報告しています。
本来、運動パフォーマンスの改善や勝利などといった望ましい結果は体罰だけが主たる原因ではなく、練習の回数や強度、体罰を受けてもなお競技を続けようとする本人の動機づけなど自分自身にある可能性(日本行動分析学会、2014)も想定できるはずです。それにも関わらず、望ましい結果が得られた際に、その主たる原因を体罰に誤って帰属してきた人たちが、体罰が競技力向上の手段として効果的であることを学習している、ひいてはその効果を根拠に体罰を容認しているのではないかと考えました。
実際の調査については、オンライン上で18歳以上の一般人を対象に行いました(内田ほか、2020)。その結果、次の結果が明らかになりました。
まず、過去の研究において繰り返し報告されてきたように、過去に体罰を受けた人たちの方が、そうでない人たちよりも体罰に対して容認的な態度を示しやすい傾向が認められました。過去の研究においても、そして私たちが行ったオンライン調査においても同様の結果が認められるということは、それだけ過去に体罰を受けた経験は、将来的に体罰への容認的な態度の形成に影響することが疑いようのない事実であることを示しています。
そして、先に説明した通り、過去に体罰を受けた経験は「体罰が競技力を向上させる手段として効果的であると思う程度」(内田ほか[2020]は、これを体罰効果性認知と呼んでいます)を介して体罰への容認的な態度の形成に影響することが明らかとなりました。
この結果は、体罰に対する容認的な態度を変容させるうえで何が大切かを示しています。
それは、運動部活動中にたとえ体罰を行使したところで、競技力向上には効果がないと教育することが大切だということです。過去に体罰を受けた経験は、体罰が競技力を向上させる手段として効果的であるという認知を介して体罰への容認的態度に影響するわけですから、両者を結びつけている体罰効果性認知を下げるような教育を施すことで変容させられる可能性があるということです。
(荒井弘和編『アスリートのメンタルは強いのか』所収、内田遼介「体罰に対する認識と実情――根絶するために必要なこと」より抜粋)
[引用文献]
兄井彰・永里健・竹内奏太・長嶺健・須崎康臣(2014) 将来教員を志望する大学生の体罰に関する意識調査、福岡教育大学紀要、63, 95-101.
朝日新聞(2013a) 体罰翌日、高2自殺 部顧問、平手でたたく 大阪市立桜ノ宮【大阪】 朝日新聞 1月8日夕刊、1面
朝日新聞(2013b) 体罰 運動部員6割容認――3大学に本社アンケート. 朝日新聞 5月12日朝刊、16面
内田遼介・寺口司・大工泰裕(2020) 運動部活動場面での被体罰経験が体罰への容認的態度に及ぼす影響、心理学研究
楠本恭久・立谷泰久・三村覚・岩本陽子(1998) 体育専攻学生の体罰意識に関する基礎的研究――被体罰経験の調査から、日本体育大学紀要、28, 7-15
坂本拓弥(2015) 体罰・暴力容認の一つの背景とその変容可能性、体育学研究、60, R3_1-R3_8.
庄形篤(2018) 体罰肯定意識の形成過程と〈成長〉に収斂する運動部活動の構造――事例研究による可能性の示唆、早稲田大学大学院スポーツ科学研究科博士論文
全国大学体育連合(2014) 運動部活動等における体罰・暴力に関する調査報告書
高橋豪仁・久米田恵(2008) 学校運動部活動における体罰に関する調査研究、教育実践総合センター研究紀要、17, 161-170.
日本行動分析学会(2014) 「体罰」に反対する声明 Retrieved from http://www.j-aba.jp/data/seimei2014.pdf [2020年3月閲覧]
平田忠・小松恵一(2017) 高校の部活動における体罰経験と体罰に対する評価をめぐって――仙台大学の場合と他大学による調査との比較研究、仙台大学紀要、48, 23-36
フェスティンガー・L・、末永俊郎監訳(1965) 認知的不協和の理論――社会心理学序説、誠信書房