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衛生観念が強まる社会において、人と一緒に「食べる」とはどういうことか

記事:大和書房

中村安希著『もてなしとごちそう』(大和書房)
中村安希著『もてなしとごちそう』(大和書房)

 読んだあと、眠りこけていた野生がメキメキと音を立てて目覚めるのが分かる。「知らないおじさんについていってはいけません」「声をかけてくる人には警戒してください」「国交のない国に行くのは自粛してください」。中村安希はこれらの旅行のイロハを守らない。見知らぬ土地の見知らぬ人からご飯に招いてもらい、それを食べ、大笑いして、深い友情を結び、お腹を壊し、熱を出し、それでも食べる。お腹が減ったら、味わう暇もなくガツガツ食べる。「旅行先では腹八分目」という旅の掟も平気で破ってしまう。私も、どこか見知らぬ土地を旅して、どこかの家の扉をノックしたくなる。街を歩く人に声をかけ、一緒に何かを飲み、食べ、語らいたくなる。ただし、それらの自由奔放に見える旅が、中村の鍛えられた観察力と判断力に支えられていることは、念のため確認しておきたい。

 本書に登場する庶民の食べものはとても美味しそうである。それを食べられない読者は、読み終わるまで「食べられませんの刑」に処せられるだろう。私をとりわけ悩ませたのは、ジンバブエの田舎の倉庫で中国人が作ってくれた汁なし麺「干拌面」、シリアの、フンムスとトマトと一緒にピタパンに挟み込んだ揚げたてのナス料理「バーズィンジャーンマクリー」、スロヴェニアの薄黄色の牛骨スープ「ゴヴェヤユハ」、ラダックの蒸し餃子「モクモク」である。どれもが、口に頬張っているときの顔面の筋肉の動きと、料理から立つ湯気のかたちまでも思い浮かべることができそうだ。

 読者をそうした気持ちにさせてくれるだけでも、本書の値打ちは十二分にある。だが、それだけに終わらないところが本書の恐ろしいところである。良質な文章で世界を旅して各地でごちそうを味わえればそれでいいじゃないか、と幕引きを図る大脳皮質の感覚野に対し、精神や言語を司る連合野が反撃を食らわせる。

 実は、本書全体にわたって、人文学的な難問が潜んでいるのである。これに気づくと、本書の味わいはより深く、脳はより疲労困憊になる。すなわち、「食べることとは、いったい何か」という問いにほかならない。

 この問いに対して本書が提示する答えは多数あるが、私がとりわけ重要だと感じたのは、「危険な行為」という答えである。まず、エジプトの「フィシーフ」。この章は最低二回読みたい。表面上の読みやすさに惑わされてはならない。旅の途中で出会った巡礼帰りのムスタファ。坊主頭の彼は、彼の叔父さんと叔母さんが住む家に中村を連れていく。この三人は「異様にウキウキしていて全然落ち着かない」。あらかじめムスタファがお願いしてこの叔母さんに準備してもらっていた料理「フィシーフ」は、窒息しそうになるほど美味しそうだ。汁に浸かったボラをエイシュというピタパンに乗せて食べ、その身をヨーグルトに入れてかき混ぜ、赤玉ねぎときゅうりを加えたサラダを食べる。ヨーグルトの爽やかな酸っぱさと魚の塩気と玉ねぎの刺激が見事にマッチする様子は、食べなくとも美味しいと確信できる。さらに、塩漬けにして発酵させたボラの白子も登場する。

 夏の真っ盛りのエジプトで、妙にハイテンションな状態で初対面の人に調理してもらった、こんな季節外れの魚料理を食べることは、体を壊す可能性の高い行為である。しかも、フィシーフにいたっては、毎年これを食べた人が食中毒を起こすような加工食品であり、フグの調理のように「正しい知識と技術がいる」。専門職人が存在するくらいなのに、どうやら叔母さんが自分で発酵させ加工した可能性があるという。「ますます意味が分からなくなった」のは中村だけではないだろう。「危険と知っていて出してくれた心意気が嬉しかった」とまとめているが、実は、この不思議な体験の解説を中村はしない。読者は、ここで問いを出されているのだ。

 「うまい」と「あぶない」と「うれしい」。これらの感情は、なぜ、エジプトの庶民の家で、融合したのか。

 私はこう考える。ムスタファの叔母さんたちにとってこの料理は最高に美味しいものだ。料理にも自信がある。季節ではないしリスクも伴うが、それよりも見知らぬ遠い国からやってきた客を可能なかぎりベストの食べものでもてなしたい。そもそも、料理とはそういうものではないか。いちいちリスク計算をしていたら味わいが薄れていく。普段は意識されないが、食をもてなすということは、危険な行為を共有することと密接不可分ではないか。だからこそ食べることは、底なしの深みを持つ行為なのではないか。

 このことを裏書きするのが、アフリカ第三の高峰を目指す、ウガンダでの登山での体験である。中村はここで「ミス」を犯す。登山の準備の打ち合わせで、どんなものが食べたいですか、というフードディレクターの質問に「どんなものでも喜んで食べますよ。食べられないものは一つもありませんから」と答えたのである。その結果、毎日三度の食事は、ポリッジとミルクティー、サンドウィッチ、パスタやフライドポテトというような欧米人の食事であった。が、途中で体調が悪くなり喉を通らなくなる。ガイドは彼女と食事をともにせず、さつまいもやポショなどの地元の食べものを食べていた。中村はそれを希望する。しかし、ガイドやディレクターは「僕らが食べるアフリカのご飯を、お客様にお出しするわけにはいかない」、「アフリカの食事だとお腹を壊してしまう人がいる」などと答えたのである。食のコロニアリズムを知る上でも貴重な証言と言えよう。

 エジプトの事例とウガンダの事例は、ちょうどコインの裏表にあたる。登山の補助サービスは、危険があってはならない商品である。危険を犯さないため極力安全で不満の出にくい料理が選ばれる。これは、準備された平壌観光をひたすら辿るなかで中村が抱いた、「私はただ金を積んだだけだ」という冷え切った感覚と遠くない。エジプトの事例は、お金が発生しないが生命の危険と隣り合わせである。だが、食べる場所は温かく、うれしさが自然にこみ上げてくる。 

 本書を読んで、私の頭の中の「客」という漢字が「顧客」という意味にあまりにも塗り替えられていたことに気づき愕然とした。平壌とウガンダの事例では中村は「カスタマー」に格上げされている。しかし、エジプトやジンバブエでもてなされた中村は、「ツーリスト」つまり観光客ではなく、「ヴィジター」つまり訪問者でしかないことがポイントだ。

 来客と顧客のあいだに横たわる深い溝。ミャンマーのロヒンギャ難民キャンプで、それはくっきりと明らかになる。案内をしてもらった難民の医師から、キャンプ内のお茶屋でインスタントコーヒーをおごってもらいそうになるが、中村は気まずく思う。なんとかご馳走したい。私もそう思うだろう。自分は金持ちの国から来て、財布にも医師の月給のおそらく七十倍以上のお金がある。「あなたは、難民だし……」と引き下がる中村に、医師が諭すように言った「難民も、人間だ」という言葉が、本書を単なる紀行文にさせない重石となっている。国家間でビジネス協定が賑やかな両国にあって、私もあなたも顧客ではないよね、となんとか確認しようとする微かな響きを、私はこの短い発言から感じ取った。

 食中毒や感染症の危険が本来的に切り離せない、食べものや飲みものをもてなす行為を、善意とか優しさとかサービス精神とか、そんな言葉で片付けることはできない。それらだけでは説明しきれない何かがある。こうした食べものや飲みものの贈与行為は、その不可抗力的な何かに突き動かされる人間のあり方が如実にあらわれる。衛生観念が強まりすぎて、それが場合によって人間と人間、人間と自然の激しさを伴う関係性を壊すまでにいたった社会では、この不可抗力を感じることは難しい。日本もまたその例外ではない。おそらく中村は、源を突き止めにくい力に惹きつけられるように、これからも旅を続けるのだろう。

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