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たった一人の生活史――終末期がん患者の語りをきく

記事:世界思想社

田代志門著『死にゆく過程を生きる』(世界思想社)
田代志門著『死にゆく過程を生きる』(世界思想社)

卓越した語り手との出会い

 本書『死にゆく過程を生きる』の中心にあるのは、山崎さんというある高齢の進行がん患者の語りだ。結婚で苦労して信仰に目覚め、自宅で起業して夜も寝ないで頑張り、でも2回がんになって死を覚悟し、息子を家に呼び戻そうとして大喧嘩に、という一人の女性の人生と病いの語り。

 私は彼女に出会ったときの衝撃をよく覚えている。とにかく今「とんでもなく大事な話を聞いている」ということだけはすぐに理解できた。しかし、それが何なのかはよくわからない。結局しばらくの間、自分の感情や思考をコントロールすることができず、テープ起こしにも手が付かなかった。

 そもそも、初めて会った研究者に自分の死についてはっきりと語る患者はそう多くない。インタビューの場面では、病気になってから今に至るまでの経緯を淡々と話し、残された時間が限られていることには、それとなく触れる程度だ(そもそもまったく触れない人もいる)。とりわけ進行がん患者の場合、本人や家族が想像していた以上のスピードで病気が進行してしまうこともあって、体の変化に心が追いつかない、ということも少なくない。

 でも山崎さんは違った。最初から自分の死について真っすぐに話してきた。例えば、抗がん剤治療から緩和ケアへと切り替えるかどうかを考えたときのことを、彼女はこんな風に振り返っている。

 どうしよう、二年間抗がん剤打って、治らないということは、ほんとに治らない〔という〕ことなんだ。じゃあ、ほんとに、そういうね、私の考え方を決めなきゃ駄目だなと思ってね。(中略)私、宗教をしていますので、若いときから。……生命っていうのは、おぎゃーと生まれて、必ず人間が死ぬ、ということなんですよね。そして、私の場合にはたまたまもう、体が疲れきってしまっている。だから、あまりじたばたしないで、疲れたんだから疲れた体を癒して、また戻ってくればいいじゃないというのが、三世の過去、未来。現在、過去、未来の永劫の課題なんです。だから、私はそうだなと。本当に一生懸命いろんなことをして疲れてしまったんだな、休んでくればいいじゃん、宇宙遊泳をして、という考え方に変わってね。(p.92)

一人の語りに広がる小宇宙

 まずに目に飛び込んでくるのは「私、宗教をしています」という言葉だ。確かにここで語られる死の捉え方は、ある種の仏教的な世界観を前提にしている。具体的に言えば、彼女が私に貸してくれた本に書かれている内容がそれだ。山崎さんと同じ宗教を信じる医師が執筆したもので、迷いのなかで繰り返し読んだという。宗教は彼女のアイデンティティのなかで大きな位置を占めていて、それまでの人生もそれ抜きには語れない。

 しかし、だからといってこの話を「こういう宗教を信じる人がこんな受け止め方をした」と簡単に整理することもできない。そもそも「宇宙遊泳」という言葉はその本のなかには出てこないし、公式の教義とも関係がない。「体が疲れきってしまっている」というのも、山崎さんのそれまでの苦労を知らないとよくわからない。彼女が夜も寝ないで働いて、ほとんど一人で家計を支えて子どもを育ててきたことを知ってはじめて、長年の疲れを癒す「休息の場」としての死後世界という理解がようやく腑に落ちる。

 また、山崎さんは友人の医療者から抗がん剤の副作用について色々な話を聞いていて、その影響も無視できない。この友人は病棟で「苦しんで、苦しんで、もがいて、壮絶な死を遂げる」患者たちを何度も見てきて、自分の夫の時には、抗がん剤治療を早々に切り上げたという。「痛み止めを使いながら旅行に行って、楽しい晩年を過ごした」という友人の話は、山崎さんに緩和ケアという選択肢に目を向けさせるきっかけになった。実際、インタビューの場でも、彼女は緩和ケアに関係する新聞の切り抜きを私に見せながら、そこから学んだことを教えてくれたのだ。

 こういう全てのことが複雑に組み合わさって、「抗がん剤治療ではなく自宅で緩和ケアを受ける」という選択が存在している。

 だから、私がこの本で試みたのは、こうした複雑な語りの一つひとつを丁寧に読み解くために一人の経験を掘り下げることだった。やったことは単純で、一つの文学作品や古典に向き合うのと同じようなやり方で、彼女の語りを「読む」ことだ。この作業を支えていたのは、この一例は単なる一例ではなくて、そのなかに広がる小宇宙がある、という感覚に他ならない。

生活史から導き出される普遍性

 振り返ってみれば、日本の生活史研究の出発点もまた一例の研究だった。公害調査で出会った一人の老婆のもとに足しげく通い、その語り口を活かしつつ、研究者はあくまで「編者」というスタイルで書かれたのが中野卓の『口述の生活史』(1977年刊)である。佐藤健二は『社会調査史のリテラシー』のなかで、こうしたスタイルを「個人のモノグラフ」と呼んだ。生活史研究は、一つの村を研究するように一人の人を研究している、というのだ。

 逆説的だが、個人のモノグラフが重要なのは、それが一人の経験は「その人だけのもの」ではない、という単純な事実を、これ以上ないほどはっきりと示してくれるからだ。実際、中野卓は一人の老婆の生活史を通して、日本の近代史が新しい形で浮かび上がってくる、と考えていた(だからこそ、『口述の生活史』の副題は「或る女の愛と呪いの日本近代」になっている)。

 この本で言えば、山崎さんの経験には、過去から現在に至る社会のあり方、病気や死のイメージの変化、家族や友人たちとのやり取り、本や雑誌で得られた知識が複雑に埋め込まれている。だからこそ、その記述は他の人びとの経験と切り離された「特殊な一例」ではなく、いずれ死を迎える私たちにとっても理解可能な「普遍性のある話」として読まれうるのだ。

 最後に。そもそも医療に限らず、今の世の中では「自分で決めること」の価値が強調されるあまり、周囲の環境から切り離された形で「私」が存在していると考えられがちだ(むしろ、周囲に振り回されずに自分で決めることが大事だ、と言われたりもする)。そんな時代だからこそ、改めて一人ひとりの経験に即して、個人の選択のなかに埋め込まれた「社会」を読み解いていく作業が重要になっている。それは些細な企てかもしれない。しかし、少なくとも私にとっては、それは自分が確かに世の中につながっていることを知るための最良の方法なのだ。

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