1. じんぶん堂TOP
  2. 哲学・思想
  3. 人生はなぜ苦しいのか 羽矢辰夫『ゴータマ・ブッダ その先へ』

人生はなぜ苦しいのか 羽矢辰夫『ゴータマ・ブッダ その先へ』

記事:春秋社

『平家物語』巻1下村本(国立国会図書館デジタルコレクションより)
『平家物語』巻1下村本(国立国会図書館デジタルコレクションより)

諸行無常の諸行とは

祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす。おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。たけき者も遂にはほろびぬ、ひとえに風の前の塵に同じ。(『平家物語』)

 多くの人が中学校の国語で暗記させられたであろう『平家物語』の冒頭である。どんなに勢いのあった平家でもついには風の前の塵のように儚く滅びてしまう。ああ、無常。だが、待ってほしい。盛者必衰で、すべては無常だから、勢いのある平家だって滅びると理解してしまっているが、ここで引用されている仏教の言葉は「すべてが無常だ」と言っているのだろうか? 焦点となっている言葉は「諸行無常」である。よく見てほしい。無常なのは「諸行」である。仏教には「一切皆苦」という言葉もある。すべてが無常なら「一切無常」と言えばよい。しかし、「諸行」なのである。諸行とは何を意味しているのだろうか? じつはこの行という言葉の解釈が、人生の苦しみ、そしてそこからの解放のカギを握っているのだ。 

 行は仏教が生まれたインドの言葉で言えばサンカーラである。サンカーラの意味は以下の通りである。

パーリ語サンカーラ(サンスクリット語ではサンスカーラ)は、もともと天然自然のままの素材に手を加えて仕上げを施し、さらにそれに飾りつけを加えて、浄く、美しいものに仕立てあげるという意味であり、そこから「化粧、模様づけ、訓練、教育、陶冶」などの語義が派生しています。(pp.36-37)

 仕立て上げるという意味の通り、一般的に行は形成力と意訳されている。だが、何を形成するのだろうか? 今度は行がそもそも仏教のどこで出てくるのかを見てみよう。

 まず行はブッダが示した5つのカテゴリーである五蘊の一つとして出てくる。五蘊とは色・受・想・行・識である。

色・受・想・行・識について、原始仏教経典には詳しい定義がありません。中村元博士は、色・受・想・行・識を翻訳するのは非常に困難であると前置きしたうえで、色は「物質的なかたち、身体」、受は「感受作用」、想は「表象作用」、行は「形成作用」、識は「識別作用」と訳されています。色は物質的要素の集まり、受・想・行・識は精神的要素の集まりで、合わせて身心と解釈される場合がほとんどです。信頼すべき仏教学がこれを基本としていることもあり、どんな仏教書を見ても、これからはずれるものはまずありません。(pp.106-107)

 なぜ5つに分けたのか、何を5つに分けたのか。なぜ物質は色1つだけで、精神は4つもあるのか。詳しい定義がない以上、そうする必要があったのだろうということしか分からないうえに、そもそもどう分けているのかもじつは定かではない。精神における形成力であるわけだからイメージする力だろうかと思えば想がそれを担っている。だから、行は具体的な機能というよりは他の3つ以外の精神の機能や意志を担わされている何かなのだ。つまり、五蘊を見ても行の意味ははっきりしない。

 次に十二因縁を見てみよう。無明を縁として行が生じ、行を縁として識が生じ、識を縁として名色が生じ、名色を縁として六処が生じ、六処を縁として触が生じ、触を縁として受が生じ、受を縁として愛が生じ、愛を縁として取が生じ、取を縁として有が生じ、有を縁として生が生じ、生を縁として老死が生じる。そして無明が滅すれば行が滅し、以下同様で最終的に老死に代表される苦が滅するというのが十二因縁である。12個それぞれの意味は置いておくとして無明の次の2番目に行が来ている。苦しみを滅するための最も根本が無明であることを考えると、行は2番目に苦しみの根本に近いということになる。さらに無明は根本的な無知であり、それが分かれば悟れてしまう以上、なんのことやら分からないが、行は無明と比べればまだ具体的な何かである。つまり、行は苦を滅そうとするうえでかなり重要な概念であることが分かる。さらに行は識を生じる機能があることが分かる。ようやく行について理解する手がかりが手に入ったのだ。

自他分離的自己形成力

 行は識を生じる苦の根本に関わる概念であることは分かった。この段階で『平家物語』の諸行とはだいぶイメージが違ってきているが、行は捉えどころがなく、解釈次第な概念であるため、諸行無常がすべては無常であるというぐらいの意味で解釈されてきたのも仕方ないのである。羽矢辰夫は『ゴータマ・ブッダ その先へ』のなかで行をこのように解釈している。

十二因縁において、より根源的で深層的な苦しみの原因と考えられたのは、ばらばらに分離され孤立した自己を形成する力、サンカーラです。無明ではありません。ゴータマ・ブッダはだれも気にもとめなかったサンカーラを苦しみの原因としてつきとめたのです。わたしたちの足元にありながらだれも気づかない、いわば死角に潜んでいた原因といえます。この原因をつきとめたからこそ、治療することができたのです。(p.36)

 ゴータマ・ブッダが見つけた苦しみの原因がサンカーラ、つまり、行であり、行とは自他分離的自己形成力であり、だから苦しいのである。自他分離的自己というのは「わたし」ということばを使う一般的な我々の自己認識である。

「わたし」ということばは、それが発せられた時点で、すでに「わたし以外のもの」との緊密なつながりを断ち切っており、たがいの融合的なつながりは考慮されていません。「わたし以外のもの」の存在はなくても、「わたし」だけで存在が成立するかのように思わせます。さらに、物理的な対象としての「わたし」は時間が経つと壊れてしまいますが、ことばとしての「わたし」はけっして壊れることはありません。あたかも不変な「わたし」があるかのように思わせます。(p.39)

 「わたし」という言葉が独立した永遠の自己があるように思わせる。そしてこの分離した永遠の自己が苦しみの原因となる。なぜか?

自他分離的自己がいとなむ人生では、生まれることと生きることと死ぬこととが生命あるもののたどる正当なプロセスとして把握されず、不当で不条理な現象として把握されます。あるとき、自分が死ぬということが避けようもなく突きつけられると、衝撃的な苦しみがもたらされます。すなわち、変わることなく永遠につづくべき「わたし」がなぜか死んでしまう、その矛盾に耐えきれず、どうしようもない恐れや不安をいだくのです。わたしたちの実存的な苦しみはこのようにして生じるのです。(p.24)

 永遠のはずなのに、自己は死を避けられない。その矛盾が苦しみを生むのである。ではこの苦しみを解決するにはどうすればよいのか? 

日常の何からのきっかけ、あるいは瞑想などの実践によってかたくなな「わたし」の殻に亀裂が生じると、一大変化がおとずれる。(中略)ばらばらに分離され孤立した自己を中心とする生存がいとなまれなくなる。新たな生存においては、生まれと老い、死が生命のたどる正当なプロセスとして把握され、不当で不条理な現象として把握されないので、実存的な苦しみとは感じられない。すなわち、変わることなく永遠につづくべき「わたし」が想定されないので、老い、死んでしまうことは矛盾ではなくなり、耐えるまでもなく、恐れや不安をいだくことはないのである。わたしたちの実存的な苦しみはこのようにして消滅し、至極の安らぎが得られるのである。(pp.22-23)

 瞑想などの実践によりかたくなな「わたし」にひびを入れるのである。ゴータマ・ブッダが苦行を止め、菩提樹の下で瞑想をしたように。それが人生の苦しみの解決法だ。

ページトップに戻る

じんぶん堂は、「人文書」の魅力を伝える
出版社と朝日新聞社の共同プロジェクトです。
「じんぶん堂」とは 加盟社一覧へ