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中村元が語る仏教の魅力『ブッダ入門』 時代超え、東西を横断する語り口

記事:春秋社

『ブッダ入門』(春秋社)
『ブッダ入門』(春秋社)

 戦後の仏教学をリードし、一般の人々にもわかりやすく仏教を解き明かした中村元が亡くなって20年以上が経つ。彼は多くの解説書、翻訳、辞典などを刊行したが、それらの書籍は今も読み継がれている。それは何故だろうか。

現在と過去をつなぐ語り口

 いくつもの理由が挙げられるだろうが、一つには、戦後早い段階で実際にインドに赴き、その文化に触れた実体験に基づく考察が挙げられる。著者自身の感じたリアルな体験を力強く伝えることで、読者をスームーズに現在からブッダ在世当時へとタイムスリップさせ、ブッダの姿を生き生きと想像させるのである。

 中村元は実際に次のように語り、例を挙げて説明している。

     ◇     ◇

 もとはゴータマ・ブッダの伝記を書くとなると、昔から伝わっている仏伝の漢訳にもとづいて書いていたのですが、この頃はインド学一般の研究が進歩して、外の方から確かめることができます。それから考古学的な研究、発掘もだんだん行なわれています。昔の人は、お釈迦さまの生涯を頭の中で考えただけです。最近はみなさんインドへ行くでしょう。インドへのツアーがたいへん楽になりました。するとじかに知ることができる。私自身も、向こうへたびたび行って、じかに知ることが多い。それによって従来の知識を修正することができます。

 そのいちばんいい例として、玄奘三蔵がインドに行って『大唐西域記』という旅行記をまとめましたが、それを絵にした書物があります。鎌倉時代のはじめに書かれた玄奘三蔵絵伝があるのです。それを見ると、玄奘三蔵がインドを旅行した、そのあちこちの場所のシーンが、絵で描かれています。日本画の、とてもいい絵です。その中で、インドの婦人の服装がみんな十二単なのです。鎌倉時代の人は、サリーというものを知らなかった。それはそうでしょうね。(本書10-11頁)

     ◇     ◇

 このように、あらゆるところでインドの文化に触れ、現在とブッダの時代を行き来することで、遠い時代のぼんやりとしたブッダを、私たちにも身近に感じさせるのである。

東西を縦横する語り口

 もう一つの理由として、インドにとどまらない視点がある。中村元が仏教を語るとき、インドの文化・思想以外にも、西欧や中国、日本の文化・思想との関係が常に意識されているといえる。古今東西の文化の比較を通すことで、より読者に興味を起こさせ、理解を助けるのである。

 その一例を挙げてみよう。ブッダは出家後、マガダ国の王舎城に赴き、そこにビンビサーラ国王がやってきて、「象の群れを先頭とする軍隊」を与えることを申し出る。その「象軍」の解説で次のように述べている。

     ◇     ◇

 そこでアレキサンダーは一度引きあげます。しかし部下の将兵たちがそこに残っていた。そこへシリアの王さまのセレウコスという人がまた進入してきた。アレキサンダーは失敗したけれども、おれは全インドを征服してみせるとやってきたのです。そして象軍とやりあって、これは大変だというので仲直りをする。シリアの王さまはインダス河から西の方は、全部インドの王さまのチャンドラグプタにやってしまったのです。今日でいうと、パキスタンとアフガニスタンとイランのあたりまで、気前よくやってしまったのです。のみならず、自分の王女をチャンドラグプタの宮廷に送って、お妃にする。

 その代償に、講和条件としてシリアの王さまセレウコスが何を受け取ったかというと、何と象五百頭もらっただけだというのです。現代の感覚ではずいぶん損な取引のように感じられますが、これは当時では最強の武器なのですね。それで象五百頭を戦場に運んでエジプトで使ってみたら大勝利を博した。今度は西のほうにインパクトが及ぶわけです。それでハンニバルが第二ポエニ戦争の時に、アルプスを越えてローマになだれ込む、そのときに象軍を使っているのです。今日でも同じですね。ある国が原子爆弾という兵器を開発すると、他の国がすぐまねをして作って使おうとするではないですか。波及効果は非常に速いのですね。(本書100-101頁)

     ◇     ◇

 象軍の説明は、インドにとどまらず、イランからローマへと拡大し、さらに現代の原子爆弾という兵器の問題にまで及んでいる。先ほどは現在と過去の時間軸を行き来するだけであったが、今度は、読者の思考を東西の歴史へと導き、地域的な広がりを意識させる。その地理と歴史への意識は、今から2500年あまり前に中インドで活動していた、歴史的なブッダの存在を再び強く読者の頭に印象づける。ブッダの生涯は単なる物語ではなく、歴史的事実として読者に訴えかけてくるのである。

楽しい授業

 『ブッダ入門』は講演会の筆録をまとめたものであり、まるで授業を受けているような感がある。もちろん、本筋はブッダの生涯と思想であり、その基本はきちんと押さえられ、わかりやすく説明されている。

 しかし要所要所で触れられるインドの文化、東西の歴史の逸話は、私たちを飽きさせない。えてして開祖や聖人の伝記は教科書のような無味乾燥な解説になりやすいものだが、中村元はそうはならないよう工夫を凝らしている。ブッダが相手に応じてわかりやすく教えを説いたようにである。

 そこには今述べたような、深い造詣と広い視野に基づく意識が常に著者にあるからだと思う。それこそが、読者を飽きさせない面白さにつながり、今も読み継がれている理由であろう。ただ一つ難をいえば、本筋よりもエピソードの方が記憶に残りやすいところであろうか。

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