『二河白道ものがたり――いのちに目覚める』 このコロナの時代に、喧噪と空しさを超える道など、あるのだろうか?
記事:春秋社
記事:春秋社
なんと言えばいいのだろう。これは小説ではない。では、エッセイだろうか。なかばイエスだが、純然たるエッセイかと言えば、もちろんそういうわけではない。ではなにか。じつはなんと、これは「仏教書」なのだ! 「仏教書」と聞いただけで、もうここで、読み続けることを止めてしまう読者もいるかもしれない。でもそれは、短慮というものだ。あまりにもったいない。ちょっと立ち止まってみても、わるくはない。
著者は、美貌と才能に恵まれたお坊さん、女性僧侶である。お坊さんに、女性も男性も関係ない。とはいえ著者は、お坊さんになる前に、つまり出家する前に、三十五回のお見合いを重ねて、ついに「生涯の伴侶」に巡り会わなかったというエピソードの持ち主である。これは並大抵のことではない。もちろん、そのことに失望してお坊さんになったというわけではない。では、どういうことか。そのあたりについては、本書でもざっくり触れられているので、お読みいただければ、ありがたい。
そのこととも関わって、問題は「二河白道(にがびゃくどう)」である。
二河白道とはなにか。いまここに、一本の細い道が、ずっと向こうに続いている。どうやら行く手の先には、幸せな「浄土」が広がっているようだ。よし、進んで行こうと思うのだが、なんと道の左手には、燃え盛る火の河が広がっている。右手には、怒濤渦巻く水の河が広がる。目の前の白い道はあまりに細い。一歩踏み出せば、あっという間に、猛火の中に、濁流の中に飲み込まれてしまうだろう。どうして歩んで行くことなどできようか。
それならば引き返そうか、と思う。ところが、なんと「群賊悪獣」の者たちが後ろから大挙して襲ってくるではないか。このままでは、たちどころに命を取られてしまうだろう。行くも地獄、帰るも地獄、とはこのことだ。夢なら醒めてくれと思うが、夢ではない、現実である。絶体絶命、いったいどうすればいいのか。
これが二河白道の喩えである。三人の女性は、その岐路の真っ只中にいる。人生の岐路だ。どうなるのか、と手に汗を握る。だが振り返ってみれば、いや振り返るまでもなく、これは他人事ではない、わたし自身の問題であった、と気づくのだ。
三人の女性とは、ほかならぬ、このわたしのことであった。この苦悩は、いったい何なのだ。どう生きるか、どう死ぬか。いやいや、生きる意味とは何か、死ぬ意味なんてあるのだろうか。「生・老・病・死」とは? いったいわたしは、どう乗り超えていくのか。
親鸞という名前は聞いたことがあるだろうか。善導という名前は聞いたことがあるだろうか。教科書にも出てくる名前だから、もちろんご存知のことだろう。二人とも、「二河白道」を熱く語った宗教者たちだ。彼らへの敬慕をも込めつつ、著者はみずからの思いをもって語り進めるのだ。そうしてやがて、「微笑む阿弥陀さん」のもとで、さわやかにたたずむ三人の女性。夜空の月が明るく三人を照らし出す。
そう、ふたたび、コロナ感染症がにぎにぎしくなっているようだ。いかんともしがたい。だからこんなときは、静かに、我が身の、あるいは世界の、行く末、来し方に思いをめぐらすのも悪くはない。道は切り開かれるはずだ、一人一人の前に。だが、どのように?
(文・春秋社編集部)