仏とは何者か、どこにいるのか。その変容から読み解く仏教 『「ほとけ」論』
記事:春秋社
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ブッダとは、「修行を完成した者」や「目覚めた人」を意味します。今でこそ、ブッダというと、仏教の開祖ゴータマ・ブッダのことを指すことが多いわけですが、何も仏教だけには限らないのです。実際に、仏教以前のウパニシャッドの段階で「ブッダ」という呼称が使われています。
紀元前1500年頃にインドに進出してきたアーリヤ人はさまざまな祭祀をおこないましたが、そこで唱える讃歌を集めたものが『リグ・ヴェーダ』です。そこから世界の成り立ちなどの思索が深まってできた哲学書がウパニシャッドです。
ウパニシャッドにはヤージュニャヴァルキヤなどの哲人が登場しますが、彼らは修行を完成した者として「ブッダ」と呼ばれていました。
ウパニシャッドの「哲人」たちについて、ぜひとも知っておくべきことがあります。……ウッダーラカ・アールニもヤージュニャヴァルキヤも、修行を完成した者として、「ブッダ」と呼ばれているのです(中村元『原始仏教の成立』春秋社 四〇〇頁)。仏教の開祖としてわたしたちが知っている「ブッダ」、すなわちゴータマ・ブッダが出現するはるか前から、「ブッダ」はいたのです。『「ほとけ」論』14頁
このように、「ブッダ」はインドでは仏教以前から存在していたわけです。
本書は、『ヴェーダ』『ウパニシャッド』から始まって、釈迦と同時代の六人の全知者たち、ゴータマ・ブッダの実像と悟り体験、部派仏教、大乗仏教、密教、日本仏教の順に「仏」を見ていきます。「ブッダ」がゴータマ・ブッダを指すようになり、その後、仏教の中でも、釈迦以前の過去仏、阿弥陀仏や薬師仏などの他土仏(私たちの存在する世界以外の国土の仏)と拡大していき、密教では究極の法身仏へと展開していきます。
「ブッダ」は中国に伝えられると「浮屠」「浮図」(ふと)と音写され、朝鮮半島を経由して日本に伝えられたとき、「ふと」が変化した「ほと」に、「(専門)家」や「気」を意味する接尾辞の「け」が付け加えられて、「ほとけ」になったと推測されています。
日本人が「ぶつ」ではなく、「ほとけ」というとき、まっさきに何を思い浮かべるでしょうか。熱心な仏教徒でなければ、亡くなった人のことだと思うのが一般的ではないでしょうか。「仏さまに祈る」ことは、お寺での祈願以外にも、お仏壇の前で亡くなった方の安寧を祈ることを意味したりします。
この点について、本書では、日本人は「仏」を、①如来(ブッダ・阿弥陀様・大日如来・・・菩薩)、②死者あるいは祖霊・先祖霊・死体、③仏の力によって成仏した死者・祖霊、の三種類で考えてきたという佐々木宏幹氏の説を紹介しています。
このように、日本では「ほとけ」の表す範囲はひじょうに広いわけです。聖人を意味したインドと比べると、死者全般にまで及ぶブッダ解釈は、本覚思想と並んで仏教の日本的変容を代表するものといえるでしょう。
本書では最後に、死の直前に、亡くなった親や親族、友人が訪れる、特別な風景を見るという「お迎え」の現象をとりあげ、アンケートの回答に阿弥陀仏や浄土などの仏教要素がないことから、次のようにまとめ、現在の日本仏教の問題点を提示しています。
この点に関して注目すべきは、すでに言及した佐々木宏幹の以下の見解です。「本尊も「ほとけ(仏)」、先祖も「ほとけ(先祖霊)」であるなら、人々は教理としての「ほとけ(仏)」よりも身内としての「ほとけ(先祖霊)」に惹かれるのが自然であろう」(『仏力』、三九頁)。じつは、「現代の看取りにおける〈お迎え〉体験の語り―在宅ホスピス遺族アンケートから―」でも、「『ほとけ』観念における『仏』と『霊』との重層化という佐々木宏幹の議論に通じる」との指摘が、註釈に見られます。
近代仏教学は、仏教から「霊」を排除せよ、と主張してきました。しかし、死の現場では、それは所詮、空虚な理屈にすぎなかったのではないでしょうか。そう思わざるをえない現実が、いまわたしたちの眼の前にあります。
そして、日本人にとって、とりわけ現代の日本人にとって、「仏=ブッダ」とは果たして何なのか、という根元的な問いが、突きつけられているのです。『「ほとけ」論』575頁