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『今ここをどう生きるか――仏教と出会う』 コロナの時代だからこそ、考えてみたい

記事:春秋社

横田南嶺さん(左)と塩沼亮潤さん 撮影:上牧佑
横田南嶺さん(左)と塩沼亮潤さん 撮影:上牧佑

 二人の仏教者が、ガチンコで対論なのだ。「こんな時代に、いったい、どう生きて死ぬというのか」という。一人は、禅者。もう一人は、千日回峰行者。どちらも、厳しい修行を経て〈覚悟〉を得たという、禅の老大師であり、回峰行の大阿闍梨である。現代のたぐいまれな高僧・名僧である。

 だからというわけではないが、話の行方は多岐に及ぶ。「私はなぜ出家したのか」から始まって、「想像を絶する修行」の数々、さらに「この〈世界〉の生き方」、そして「〈仏教〉の力」まで。じつに独特に、切実に、示唆に富む。若い人にはぜひ手にとってほしい。

言葉の力

 たとえば、千日回峰行の山中でのこんな呟きの言葉。

 「山中で一番きれいな場所があります。晴れたらお天道さまが微笑んでくれて、木漏れ日が差して蝶々が飛んで、まさに天国のような場所があります。しかし、そこはいったん山が荒れると、もう手がつけられないほど怖い場所になって、命を取りにくるんです。まさに天国と地獄は同じ場所、そこで深い世界に入り考えると、ああそうか、天国も地獄も己の心がつくるものだと実感します」

 深く、美しく、切ない、そういう言葉というのがあるのだ。それはそのまま、生きてあることに深い示唆を与えてくれるだろう。もう一つだけ、挙げよう。

 「笠に落ちる雨音を聞いた時に、昨日まで流した涙が雨となり、悟れ悟れと励ます雨音。人生において、流した涙が川となって大海原に流れ注ぎ、それが雲となり雨となり、また自分の網代笠に落ちてくる。流した涙が自分を励ましてくれる。大自然は全てがつながっている、まさに信の世界なのでしょうね」

 ここで、信とはいったいなにか。そう問う前に、深くうなずいている自分がいないだろうか。人としての深い目覚め、世界への覚醒、とでも言おうか。

「異形の者」

 これが仏教者の言葉だ。こんな震えるような言葉を紡ぎ出す。だから、かつて武田泰淳は、そんな仏教者を指さして「異形の者」と呼んだのだ。

 そう、頭など丸めて、長いローブのような衣を身にまとって、見るからに「異形」そのものではないか。それを出家という。だが、いったいなぜ出家などしようとするのか。そもそも出家とは何なのか。

 坊さんは世襲かと思っていたが、そうではないらしい。世襲は明治以降のこと、本来は、俗世の家を出る。それが出家の本義。だから、出家の対語は、「在家(ざいけ)」という。世俗のわれわれのことを指す。

 今の世でも、数は圧倒的に少ないが、在家からの出家があるという。道を求めての求道者。驚いてはいけない。本書のお二人も、在家からの出家者だという。

 そんな二人に、コロナ禍で騒がしいこの世界はどう映じているのか。決して悟りすまして高みにいるのではない。そうではなく、いまこの地平に降り立ち、泥土のようなこの世の中で語るのだ。耳を傾けるべし。とりわけ若い人々ならば。

痛切な批判

 本書のもうひとつのポイントは、痛烈な、激越な仏教(教団や僧侶)批判だ。真摯に道を求め、人々に寄り添い、〈世界〉に向き合えばこその、怠惰な仏教僧・教団への怒りであり、批判であるだろう。「仏教者よ、目覚めよ!」。それがもう一つの、本書の隠されたテーマだ。

 だが、よく読んでみれば分かるのだが、その過激なまでの言葉は、それはそのまま、自らに向けられた自己批判の言葉だ。他者への痛切な言葉は、そのままブーメランのように自らに向かう。そういうおまえ自身はどう生きているのだ、と。そのことを自覚しての痛烈な言葉。

 そして、だがなんと気づいてみれば、その言葉はそのまま、われわれ自身に投げかけられた言葉なのだ。他人事ではない、自ら襟を正す。われわれは、今ここをどう生きるか。それは、コロナの問題などではなかった。われわれは、わたしは、どう生きるのか。本書が問う。

撮影:上牧佑
撮影:上牧佑

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