江戸情緒を感じさせながらも、現代感覚あふれる小村雪岱の画の成り立ちに迫る
記事:幻戯書房
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小村雪岱(1887―1940)が小説家の邦枝完二(1892―1956)とコンビを組み、『東京朝日新聞』および『大阪朝日新聞』の夕刊の連載小説「おせん」の挿絵を手がけたのは、昭和8年(1933)のことである。9月26日には雪岱の名も記された予告記事
が掲載され、四日後の30日に連載開始、12月まで全59回にわたり紙面を飾った。東京が13日、大阪が28日と、連載終了日に相違があるのは、東西で紙面レイアウトが異なり、小説の掲載日がずれているからである。
邦枝の言葉(「おきた・おせん・お伝」 『行動』1935.6)を借りれば、〈絢爛たる江戸の文化が最も芸術的の波を打っていた明和期〉を舞台とし、〈衆人の憧れの的となった美女〉で〈浮世絵師鈴木春信の絵に因って評判を取った谷中笠森の水茶屋娘「おせん」〉を主人公とするこの物語は、大いに評判を呼び、賞讃された。
「おせん」の評判の一端は、雪岱の挿絵も担っていた。
弟子筋の山本武夫は「小村雪岱の人と作品」(『小村雪岱』形象社 1976)の中で〈雪岱の挿絵が大評判になったのもこの頃からである〉と、挿絵画家としての雪岱の名が「おせん」をきっかけに広く知れ渡ったことを述懐している。つまり雪岱の挿絵が、「おせん」など邦枝作品を手がける中で一皮剥け、独自の画風が確立されたということであろう。その画風こそ、江戸情緒を感じさせながらも、現代感覚あふれる《雪岱調》なのである。
「おせん」で評判を呼んだ雪岱の挿絵画風は、戦前は《雪岱型》、現在は《雪岱調》と言われている。《雪岱調》の特徴を一言で言えば、静的ということになる。
省略されたシャープな線描、遠近法を無視したパース、大胆な余白、画面全体を引きしめる黒と白のコントラスト。また、舞台装置家としての経験も生かした、俯瞰の構図。雪岱は平面の世界に緊張感あふれる空間を静的に描き出したのである。
特に遠近法の無視については、後に映画化される「おせん」の美術を語る際の〈私の遠近法を無視した挿絵の感じ〉(「女優にみる浮世絵の線」 『映画之友』1937.12/『小村雪岱随筆集』幻戯書房 2018)という雪岱自身の言葉にも裏付けられている。
また、《雪岱調》には「おせん」の登場人物の一人で、江戸中期の明和の浮世絵師、鈴木春信の画風が取り入れられている、との見解がある。
鏑木清方は雪岱歿後に刊行された『小村雪岱画集』(高見沢木版社 1942)の「序」で〈云わば春信うつしの渾然として、ほんものになり切ったのは、邦枝完二氏の小説「おせん」の挿絵であろう〉と述べており、こうした見方は繰り返し語られるところである。
さらに、雪岱が参照した浮世絵師は、春信だけではなかったことも指摘しておきたい。
雑誌『書物展望』で、挿絵や装幀について度々論じていた酒井潔は、その昭和8年(1933)12月号で、『サンデー毎日』の邦枝完二の連載小説「夏姿團十郎」(全18回 1933.6.4―10.1)の挿絵を取り上げ、〈絵は国貞辺の旧套を襲いながら、小村雪岱の新しい感覚が現われて居る〉(「現代一流雑誌挿絵論」第5回)と、雪岱が江戸後期の浮世絵師、歌川国貞の画風も取り入れていたことを記している。これらの特徴を有する《雪岱調》は、仕事相手の編集者にも〈特異な御画風〉(岡田貞三郎『大衆文学夜話』青蛙房 1971)と言われ、比肩し得ない独創的な世界観を作り上げた。
むろん酒井潔は「おせん」の挿絵も見逃さなかった。『書物展望』昭和9年(1934)1月号で〈最近「朝日新聞」の邦枝完二作『おせん』に描いて居る挿絵こそ、同氏近来の傑作であろう〉(「挿絵展望」)と、雪岱を高く評価している。
また、著者の邦枝も〈朝日へ書いた「おせん」の時の挿絵の如き殊に雪岱氏の代表作ともいうべきもの〉(「挿絵について」 『塔影』1935.12)との認識を持っていた。
小村雪岱が芸術家として世に出たきっかけは、文豪泉鏡花が大正3年(1914)に千章館より上梓した書き下ろしの単行本『日本橋』の装幀である。
雪岱は装幀者として、初めは本名の「安並」に、鏡花から授かった画号「雪岱」を合わせて《安並雪岱》を名乗ったが、鏡花に旧姓の「小村」を薦められ、時をあけずに現在知られる《小村雪岱》へと改めている。
雪岱は、鏡花の『日本橋』以降の著書、いわゆる《鏡花本》の装幀を一手に引き受けただけでなく、装幀家として活躍することで、仕事の幅を拡げていった。五代目中村歌右衛門や六代目尾上菊五郎に贔屓にされた舞台装置の仕事、そして、新聞や雑誌で腕を振るった《雪岱調》で知られる挿絵の仕事である。
挿絵画家雪岱が大衆に認知されていく過程で無視できないのは、折につけ仕事を頼み、後押しをした親しい作家たちの存在である。
雪岱を世に送り出した鏡花を中心とする、少人数の作家たちの会合があった。「会の名は――会費が九円九十九銭なるに起因する」(「九九九会小記」 『三田文学』1928.8)と鏡花がその名の由来を述べている九九九(きゅうきゅうきゅう)会は、大正期に始まった。会の仲間である久保田万太郎、水上瀧太郎、里見弴らは、初期の著書の装幀の多くを雪岱に任せている。
九九九会の後押しは装幀に止まらず、挿絵にも及んだ。大正5年(1916)には鏡花が『邦楽』6、7月号に連載した「摩耶山記」
の、万太郎が『文芸倶楽部』6月号に発表した「春ふる雪」の挿絵を雪岱に任せ、これらが嚆矢となった。
しかし、挿絵画家の花形の仕事、すなわち新聞連載小説の挿絵を雪岱が手がけるのは、大正11年(1922)まで待つ必要がある。
『時事新報』および『大阪時事新報』で「多情仏心」を連載することになった里見弴は、その挿絵
を雪岱に依頼する。だが、関東大震災を挟む大正11年末から翌年までの約一年間、全300回にわたって連載されたこの小説の挿絵の評判は、決して良いものではなかった。この挫折により雪岱は、新聞連載小説の挿絵からしばらく遠ざかることになる。そんな雪岱に再び手を差しのべたのは、やはり里見弴と同様、九九九会の仲間たちであった。
昭和2年(1927)、『東京日日新聞』が複数の作家と挿絵画家のコンビによるリレー形式の連載「大東京繁昌記」(全191回)を企画、久保田万太郎は雪岱と組み、「雷門以北」(全15回 6.30―7.16)
を寄せている。昭和4年(1929)には泉鏡花の「山海評判記」(全125回 『時事新報 夕刊』7.2―11.26)、そして里見弴の「闇に開く窓」(『大阪朝日新聞 夕刊』9.7―12.30)が続いた。雪岱の新聞連載小説の挿絵の実績は、九九九会の仲間たちによる強力な後押しに支えられていたのである。
新聞の挿絵と並行して雪岱が広く手がけるようになったのが、創刊が続いていた雑誌の挿絵である。
大正11年(1922)に『週刊朝日』『サンデー毎日』の二誌が創刊されていた。そして、大日本雄弁会講談社が大衆雑誌『キング』を大正14年(1925)1月号より創刊し、大成功を収めて、多くの出版社がこれに追随した。
同じく大日本雄弁会講談社が『富士』を昭和3年(1928)1月号より、文藝春秋社が月刊誌『文藝春秋』の二冊の臨時増刊をふまえ『文藝春秋オール讀物号』を昭和6年(1931)4月号より(1933年1月号以降『オール讀物』)、新潮社が『日の出』を昭和7年(1932)8月号より創刊し、『キング』の成功に続けとばかり、誌面の充実を図り、挿絵画家たちに広く手を差しのべていた。
小村雪岱は大衆雑誌の挿絵の仕事を介し、白井喬二、長谷川伸、子母澤寛ら大衆小説作家とも新聞連載でコンビを組む機会を得てゆく。
中でも、江戸情緒あふれる浮世絵的な世界を書き出した邦枝完二とのコンビは、挿絵画家としての雪岱の力を存分に発揮させた。
現在、小村雪岱の挿絵画業は主に、邦枝完二とのコンビで広く知られている。
その代表作として常に挙げられる「おせん」の挿絵を、雪岱が手がけることになったのは、邦枝の指名による。
〈朝日新聞から話のあった時、わたしがもしも挿絵画家の選定を誤ったなら、どのような結果になっていたかは、余りに明瞭に過ぎる〉(「雪岱さん」 『双竹亭随筆』興亜書院 一九四三)
こう自賛しているように、挿絵画家選定の権限は邦枝にあり、候補者は複数いた。
「おせん」以前の、邦枝の新聞連載小説について言えば、「東洲斎写楽」(全32回 『大阪朝日新聞 夕刊』1928.8.26―10.10)
は小出楢重が、 後に「歌麿をめぐる女達」に改題される「歌麿」(全140回 『大阪朝日新聞 夕刊』1931.3.29―10.10)
は山村耕花が、そして「江戸役者」(全70回 『東京日日新聞 夕刊』『大阪毎日新聞 夕刊』1932.9.20―12.28)
は雪岱が挿絵を手がけており、コンビを組んだ経験のあるこの三人が、「おせん」の挿絵画家の有力候補だったと考えてよい。
加えて「東洲斎写楽」と「歌麿」が「おせん」とも重なる『大阪朝日新聞』の夕刊連載だったことを考えれば、楢重と耕花の二人は新聞社側にとっても馴染みがあったはずである。しかも楢重は「東洲斎写楽」の前の、同じ『大阪朝日新聞』の夕刊連載「雨中双景」(全20回 1926.5.18―6.19)の挿絵も手がけている。
しかし、楢重と耕花を差し置き、邦枝は雪岱を指名した。「おせん」の小説世界を表現できるのは楢重でも耕花でもなく、雪岱だと邦枝は判断したのである。
「おせん」の挿絵画家は雪岱、と邦枝が決めた理由とは、どのようなものだったのか。
〈新聞小説というものは、作者画家共に一種のコツがあるものだから、所謂ウマが合わないとなかなか手際良く行かない。が、雪岱さんとわたしとは、いい具合に初めからウマが合って、いずれも評判が好かった。」(「雪岱さん」)
こう邦枝は述べており、初めてコンビを組んだ「江戸役者」での好感触を明らかにしている。その思いはお互いにあったようで、雪岱が「あなたの絵を描くのが、一番描きよござんすよ」と言っていたことも、邦枝は同じ文章で嬉しそうに記している。二人の相性の良さは、新聞連載小説でのコンビが繰り返されたことからも明らかであろう。
昭和7年(1932)に『東京日日新聞』および『大阪毎日新聞』の夕刊で連載された「江戸役者」を始めとして、邦枝と雪岱は昭和8年の「おせん」でもコンビを組み、《雪岱調》の挿絵は評判を呼んだ。
昭和9年9月21日から翌年5月11日にかけては、『読売新聞』の夕刊で、代表作とされる「お伝地獄」(全227回)が続き、昭和13年から翌年にかけては、再び『東京日日新聞』および『大阪毎日新聞』の夕刊連載でコンビを組み、この「喧嘩鳶」(全162回 東京:1938.8.7―1939.2.15 大阪:―1939.2.14)が最後となった。邦枝と雪岱は計4作の新聞連載小説で名コンビぶりを示したのである。
「おせん」の成功で、邦枝完二は独自の世界観を織りなす人気作家としての地位を確立したが、それはもちろん小村雪岱とのコンビだけでなく、自身が築き上げてきた一連の新聞連載小説の評価にもよるであろう。
邦枝が私淑し、その知られざる第一単行本『情の人々』(三生社出版部 1915)
の上梓の際にも影ながら制作に関わったと思われる永井荷風は、『おせん』単行本化の際に寄せた序文で、邦枝をこう評している。
〈独(ひとり)邦枝君のみ中年に至って、精力毫(ごう)も昔日に異(ことな)らず、思想才芸今やまさに円熟大成の境地に至らんとす。其(その)近業にして今汎(あまね)く世に迎へらるるものは、専(もっぱら)江戸市井の風俗生活を描写せし小説なり。即(もっぱら)東洲斎写楽、喜多川歌麿、八代目團十郎、笠森おせん等の事蹟を資料となせし長篇の諸作なり〉
邦枝の近作の中でも〈江戸市井の風俗生活を描写〉した〈長篇の諸作〉すなわち新聞連載小説群を〈今汎く世に迎へらるるもの〉と高く評価している。
荷風が挙げた4作を実際の題名と繋げてみると、「東洲斎写楽」はそのまま「東洲斎写楽」、「喜多川歌麿」は「歌麿」、「八代目團十郎」は「江戸役者」、そして最後の「笠森おせん」はもちろん「おせん」を指す。
これら荷風が挙げた4作の中で、現在、邦枝の代表作とされているのが「おせん」であることに疑いの余地はない。その評価の一端を担っていたのが、邦枝がコンビの相手として重ねて指名した雪岱であり、その挿絵画風だったのである。
前述のとおり、鏑木清方は、《雪岱調》には江戸中期の浮世絵師、鈴木春信の画風が取り入れられていると指摘している。清方は小村雪岱の〈春信うつし〉のきっかけが「おせん」であったと見なしている。
また、弟子筋の山本武夫は、雪岱が〈複製本の「青楼美人合」などを購入し、おせんのイメージ作りをした〉(「小村雪岱の人と作品」)と述べ、明和7年(1770)刊行の春信画による『青楼美人合』の、大正期の復刻本(久保田米斉編 図画刊行会・吉川弘文館 1917)を参考にしたとする伝聞を披露している。
確かに、雪岱歿後にその蔵書を売り立てた際の『小村雪岱氏遺蔵本入札目録』には、春信画の『絵本童の的』が掲載されており、山本の言うように、雪岱は春信の資料を手元に置き、参照していたと考えられる。
それだけではなく、雪岱が春信などの資料を蒐集し始めた時期が、邦枝完二との仕事をきっかけにしているとすれば、春信の資料を、浮世絵のコレクターだった邦枝から貸与された可能性も考えられる。
『旧大名某家書画刀剣道具・邦枝完二氏浮世絵 入札売立』(東京美術倶楽部 1937.11)
は、邦枝が挨拶文で〈所蔵の肉筆浮世絵を手放すことにしました〉(「舌代」)と語っているように、その蒐集品の一部を売り立てた目録である。
趣味の側面もあろうが、「東洲斎写楽」「歌麿」「江戸役者」そして「おせん」と、浮世絵師や役者が主人公の小説を創作する際に、物語を膨らませるイメージの源として、浮世絵を蒐集していたと考えられる。
売り立て品には歌川派の祖の豊春、その弟子で役者絵や美人画で人気を博した豊国らと並び、自ら春信筆と説明する作品もあり、邦枝の審美眼に適う浮世絵がどのような作品だったかがわかる貴重な資料である。邦枝のみならず、雪岱が挿絵制作の範とした可能性もあると言えるのではないか。
「おせん」は連載完結の翌月、昭和9年(1934)1月に、小村雪岱の装幀で『絵入草紙おせん』
として、新小説社より単行本化された。タイトルに「絵入草紙」と加えられているように、連載時の挿絵59点すべてを収録、木版摺りの新たな口絵も綴じ込まれ、雪岱は共著者として邦枝完二と名前を並べている。
それらの挿絵を指して、前述の酒井潔は、『書物展望』昭和9年5月号掲載の「挿絵展望 単行本挿絵の巻」にて〈過去の色彩と線條との交響楽である浮世絵を、近代的に再現したもの〉とし、〈金属凸版〉で印刷されたそれは〈鋭い切味の近代味〉で溢れていると述べている。
版元の新小説社は、春陽堂で番頭も務めた島源四郎が独立し、昭和8年に立ち上げたばかりの出版社であった。独立の際に関係者に配った冊子「御挨拶」には、島の挨拶文の他に春陽堂の和田利彦による紹介文、そして長谷川伸、里見弴、菊池寛、久保田万太郎、恩地孝四郎らと並んで雪岱も推薦文(『小村雪岱随筆集』幻戯書房)を寄せており、島と雪岱の関係の深さが窺える。
「おせん」は以降も度々単行本化された。まず昭和11年に、雪岱が装幀を手がけた『邦枝完二代表作全集』(新日本社)の第8巻『浮名三味線・色娘(おせん)』
に収録されたが、先の新小説社版とは異なり、挿絵はない。
昭和15年の雪岱歿後も、その挿絵が使われた『おせん』が刊行されている。昭和21年には三及社版『おせん』が、続いて昭和24年には三福紙工版『木版画本 おせん』(三越出版社発売)が刊行されている。三福紙工版は限定500部、戦後では珍しく装幀に本文の挿絵にと、木版摺りを多用した造本で、別摺りの『発刊御案内』では邦枝が〈「日本一の本」が出来上がつた〉と讃えている。「おせん」に対する思い入れがよく表れていると言える。
新小説社版や、戦後刊行の三福紙工版のように、『おせん』は邦枝の単行本の中でも一際特別な装幀で刊行されてきた。こういった造本もまた、「おせん」を特別視させている役割を担っているのであろう。
「おせん」の挿絵は雪岱にとっても思い入れの深いものであった。それは画壇での姿からも垣間見える。
雪岱はその芸術家人生において、明治期の文部省美術展覧会での二度にわたる落選以降、画壇とは距離を置いていたと思われる。
だが、松岡映丘が昭和10年に美術団体の国画院を立ち上げた際に参加しており、昭和12年の同人による展覧会では、「影向」(絵巻物一部)の他に、新聞連載小説の挿絵を元に描き下ろした肉筆作品の「江戸役者 三題」と「おせん 三題」
を出品している。
国画院の同人たちが本画を出品する中、雪岱は本画の他に、自身の日々の仕事である挿絵の延長線上にある作品を描いたのである。
「おせん」に言及しているある論考については、指摘すべき重要な問題がある。小村雪岱および邦枝完二の歴史が誤った形で広まっていると考えられるので、ここで取り上げておきたい。
平成21年(2009)から翌年にかけて、埼玉県立近代美術館で大規模な小村雪岱展が開催された。その展覧会の図録『小村雪岱とその時代――粋でモダンで繊細で』(2009.12)に掲載された、平山郁の論考「雪岱挿絵私考」では、ある伝聞の証言が取り上げられている。該当部分を引用する。
「おせん」の挿絵で二万部も新聞の購読部数が伸びたと伝えられているほどだ。
この、「おせん」の社会的評判により掲載紙の購読部数が二万部も増加したとする、語り手が不明の伝聞の証言は、平山の論考を起点に拡散し、以降の雪岱関連の文章で広く引用されてしまった。
「小村雪岱を知っていますか?」と題する特集が組まれた『芸術新潮』平成22年(2010)2月号や『小村雪岱――物語る意匠』(埼玉県立近代美術館監修 大越久子著 東京美術 2014)、また『意匠の天才 小村雪岱』(原田治ほか著 新潮社 2016)にも同様の記述が認められる。
しかし、この伝聞の証言について稿者は探索を尽くしたが、情報元を見つけることはできなかった。ただし、「おせん」とは別の作品で、邦枝が同様のことを語った資料の存在は確認している。
『大衆文学代表作全集』(河出書房)の第19巻(カバー絵:山本武夫 1955)は邦枝を取り上げており、「お伝地獄」「お伝情史」「おせん」が収録されている。その月報には邦枝による「「お伝地獄」当時」と題された文章が掲載されており、このような証言がある。
材料が珍しかったせいか、或は明治初年の文明開化の横浜などが、あれこれと書かれていたせいか、読者が大喜びに喜んでくれて、翌月は発行部数が二万いくらか増えたという話を、内部の人から聞かされたり、当時の社長正力さんからは、原稿料一ヶ月分の賞与を貰ったりして、こちらも大いに気をよくしたものであった。
注目すべきは、平山が取り上げた「おせん」についての伝聞の証言とほぼ同じ内容が、著者の邦枝により「お伝地獄」のこととして書かれている点である。
邦枝の記憶違いとも考えたが、当時の読売新聞社社長の正力松太郎から〈原稿料一ヶ月分の賞与を貰った〉という当事者しか知り得ない証言もあり、邦枝が「おせん」と「お伝地獄」を取り違えた可能性はまず無いと考えていいのではないか。
「お伝地獄」の連載の評判で、読売新聞の翌月の〈発行部数が二万いくらか増えた〉とする著者本人の証言を鑑みれば、平山が取り上げた伝聞の証言は、「おせん」と「お伝地獄」を取り違えたものと考えてよかろう。
もちろん、「おせん」も同様の役割を果たした可能性は否定できないが、掲載紙の購読部数を伸ばしたと、正確な証言により判明しているのは、『読売新聞』の「お伝地獄」のほうであり、『東京朝日新聞』および『大阪朝日新聞』の「おせん」ではなかった。
この伝聞の証言が検証なく引用され続けたことで、小村雪岱のみならず、「おせん」の著者、邦枝完二の評価も誤った形で広まってしまった。雪岱研究の今後の進展を考えれば、さらなる実証的な調査研究が求められよう。
小村雪岱は昭和15年(1940)10月15日に倒れ、二日後の17日に帰らぬ人となった。装幀、挿絵、舞台装置と、それぞれの世界からその美意識を求められ、最後まで仕事に追われながら、この世を去った。
歿後一年の昭和16年秋に書かれたという、邦枝完二による雪岱の追悼文がある。最後の部分を引用したい。
惜しい人に死なれてしまった。今後わたしの新聞小説がどうにか変化するとしたら、それは時勢のためなんぞではなくて、雪岱さんを亡くしたがためだといってよかろう。あれだけわたしの作品を理解して、江戸の女を描いてくれる人は、今後二人と出まいと思っている。(「雪岱さん」)
雪岱歿後の邦枝の新聞連載小説の評判は、どうなったのであろうか。
戸板康二が〈雪岱が挿絵を描くと、小説がいつも生き生きとして見える。新聞の連載の時など、毎日それを見るのが楽しみだったのを思い出す〉(「小村雪岱の世界」 『三鬼才展――木村荘八 小村雪岱 河野通勢』日本橋三越 1976)と書いた日々の光景は失われ、邦枝の新聞連載小説も寂しいものになってしまったのかもしれない。
雪岱は「江戸役者」や「おせん」で自身の挿絵画風《雪岱調》を確立し、以降、八面六臂の活躍を大衆に見せつけた。雪岱にとっても「おせん」は忘れがたい、挿絵画家としての節目の作品であったろう。
遠近法を無視したパース、俯瞰の構図、大胆な余白、省略されたシャープな線で描き出された黒と白のコントラスト、そして、取り入れられた浮世絵師の鈴木春信や歌川国貞の画風。こうした要素で彩られた挿絵は、先の酒井潔の指摘のように、近代的な〈金属凸版〉により〈鋭い切味〉を以て印刷され、雪岱が望んだであろう形として、情緒的な表情は絶妙に削ぎ落とされ、新聞や雑誌の平面の世界に静的な表情で再現された。
特異な画風は、万人に受けるものではなかったかもしれないが、邦枝完二との出会いを経て、現在は《雪岱調》と呼ばれ、古びることなく、その名を大きく残している。
邦枝との出会い、その作品を介した春信や国貞との出会いが、雪岱の筆が引く線に、江戸情緒を感じさせながらも現代感覚のあふれた、新たな美意識を宿すことになる。
雪岱が描いてきた数々の江戸の女たちは、時代に左右されることのない挿絵画風《雪岱調》で描かれたことで、時を経ても、個性を抑えたその表情のなかに、かすかな情感を浮かべているのである。